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2015年5月 9日 (土)

劇団態変「試験管」

3月19日

構成・振付:金滿里
出演:金滿里 小泉ゆうすけ 上月陽平 下村雅哉、向井望 国頭弘司

ウイングフィールド(大阪市中央区)

 「イマージュ」で公演評を書く予定なので、ここではあまり中身にはふれないが、このチラシ(デザイン:東學)を見た時に、いつもと違って劇団態変のメンバーの身体の写真が使われていないことに、衝撃を受けた。態変メンバーの、いわゆる障害を持った身体は、劇団態変固有の「ウリ」であり、チラシであってもその視覚的な衝撃が表に出されないということで、どういう変化があったのかが気になった。

 公演タイトル「試験管」から、出生前診断のことなど、様々な「障碍」に対する科学的といわれるアプローチの功罪が思い浮かび、試験に晒されるのが劇団態変の側の身体であるのかと思われたのだが、やはりそんな受身であることは、なかったわけだ。

 この現在の世界に対して、態変の身体の側から科学を科学的に検証することを宣言する。つまり、障碍を持った身体は常に受身であることを強いられてきたが、そうではないということを闡明する。またしても、ぼく自身の固定観念を揺るがせてくれるコンセプトだ。

 だから、ラストの客席乱入に鮮やかに見られたように、攻撃性があらわになる作品だった。この攻撃性、激しさは、貴重だ。

 だから、チラシにも、態変の身体が見られる側として写されるのではなく、態変的存在の側から、態変的存在が行う作業のさまが抽象的に描かれたのだろう。

 言葉を使わない態変の身体表現が、ひところの物語的展開を離れ、大きなテーマに基づきつつ説明的・マイム的ではない抽象的な身体表現となっている、その大きな段を昇り、新たな局面を開く公演だったように思う。

 今の現実に向き合うことの困難さとは、具体性を帯びた喩や物語の表われではなく、数式や構造式の向こう側に身を潜めている、とんでもない直接的な力の存在を直視することに他ならない。それは具体的-抽象的という対ではなく、直接的という大きな暴力性との対となって聳え立つ、新しい抽象なのではないか。

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