« 山田うん Co.「七つの大罪」「春の祭典」 | トップページ | 宝塚歌劇団花組「カリスタの海に抱かれて」「宝塚ファンタジア」 »

2015年5月 9日 (土)

川瀬亜衣「際の踊り」

3月23日

出演:藤原美加、川瀬亜衣

ArtTheater dB神戸(神戸市長田区) 

 dBの国内ダンス留学の2期生で、ダンサー奨励賞を受けた川瀬の初振付作品。川瀬は学生時代は美術に携わっていたらしい。千日前青空ダンス倶楽部や黒沢美香らによる「ジャズズ・ダンス」に出演していた。

 形と動詞がはっきりと打ち出された、川瀬ならこういう立ち方をするだろうなと思われた作品だったように思う。それは想定内でつまらなかったという意味では全くない。装飾や震えを帯びない、きっぱりとした形の連続で、清潔感のあふれる公演だった。

 開演前から、曖昧に左に傾いで立っている姿があった。妙な印象に聞こえるだろうが、それは踊ろうとしている身体ではなく、存在している身体であるようだった。

 動きが速度を伴うにつれ、動きが何かのようになっていくように思え、何かになって喩となるのかどうするのかと思っていたら、すっと止まって背中を見せる。そういう時間の流し方、止め方をする。動きは意味ではなく、意味の連なりにはならない動きが重ねられることで、時間が積み重ならず、束ねられないことが、潔さとなって結晶する。

 不思議なことだが、妙なところに目が留まる。たとえば、川瀬の耳の線の動きが美しいなと思った。耳の線ってどこだろう、それは動くのか? 後で無理に意味づけをするように聞こえるかもしれないが、上体が揺れた時に、それを顔とか頭とか認識するより先に、耳が動いたその残像が目に残り、動きが線となって、美しいと思った、そういうことだったのだろう。そういう動きがあった。

 藤原を加えて2人が舞台に上がることで、遠近ができたのがよかった。遠いということが、距離だけではなく、速度や濃度でありうることも知れる。そこで奥行きないしはコントラストが生まれ、観ている自分自身を含めた3点が置かれると、空間が定まる。

 根源的ということを思ったのだが、それは身体が踊る=ダンスする以前の、身体であるという状態あるいは生きているという様子そのものが発する、生命が生きて存在していること自体が放つ光のような空間を指すと思っている。こういうと何だか死後の世界に見るお花畑のように思われてしまいそうだが、そうなると、生命以前/以後ということになって、あながち逸れるわけではない。

 何かがそうであること以前の状態であることを眼前に示されたようで、これはダンスですか身体ですか動きですか…などと問われたら、いえ、これは過程そのものです、と答えたらいいのではないかと思っている。

|

« 山田うん Co.「七つの大罪」「春の祭典」 | トップページ | 宝塚歌劇団花組「カリスタの海に抱かれて」「宝塚ファンタジア」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 川瀬亜衣「際の踊り」:

« 山田うん Co.「七つの大罪」「春の祭典」 | トップページ | 宝塚歌劇団花組「カリスタの海に抱かれて」「宝塚ファンタジア」 »