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2015年5月 9日 (土)

「村川拓也×和田ながら×punto」

3月28日

『肩甲骨と鎖骨』
 演出:和田ながら(したため)
 出演:穐月萌、高木貴久恵、田辺泰信

『終わり』
 演出:村川拓也
 出演:倉田翠、松尾恵美

Gallery Punto(京都市南区)

 2011年に国民文化祭のフリンジ企画として開催した「すごいダンスin府庁」が、府庁旧本館正庁の改修等もあって、使用交渉がうまくまとまらず、実行委員長の倉田翠が苦心の末に、会場を変えて実施するに至った公演で、「すごいダンス」と大きく謳ってはいないが、立ち上げのエネルギーが反転の形にせよ続いているのは、最初関わっていた者として、うれしい。

 倉田自身ダンサーとして、「ダンス」という言葉に対して、逆にダンスでなくてもよい、という思いがあるのかもしれない。演劇でもダンスでもいいから好きなことをやってもらおうということで集まった作品が、この二つだったようだ。結果的に京都造形芸術大学卒の若手による作品が並んだが、意図してのことではないという。「ダンスでなくてもよい」と提示することによって、かえって「ダンスではないかもしれないけれども」という微妙なスタンスが出来上がって、流行りの(?)「ダンス的演劇」とか「演劇的ダンス」とかいうのとは一味違う、双方が見せ消しされたように消去強調された、空白的な舞台が出来上がっていたように思う。

 「肩甲骨と鎖骨」は、窓から見える家並みの窓の数を数える作業をモチーフに、その反復を労働と捉える仮説から、「~を覚えています」という記憶という行為に焦点を絞った、詩的な、いわゆるサイト・スペシフィックな演劇作品。といっても、3人の演者が相互にコミュニケーションをとる場面はほとんどなく、朗読のように独白で展開するのが、奇妙な浮遊感を漂わせる。それは孤独というわけではないが、平凡な物言いをすると、都市の中で人々が別々に暮らしていることの詩的な造形として、非常に的確だったと思う。

 会場の大きな窓を効果的に使うことで、独白というものの持つ開放性と、距離と時間による消尽=受け止められないまま流れていく…という性質が浮かび上がって、孤立感が強調されたようだ。

 「終わり」は、元・地点の演出家、映像作家である村川の演出による、2作目となる舞踊作品。蹴る、叩くという暴力という形の負荷を身体に与えることによって、雰囲気、感情、表情を作っていくという、一般的な表現とは逆転したプロセスによって、痛覚をはじめとする直接的な刺激を、同時にダンサーと観客に与えることに成功していたといえるだろう。

 倉田が松尾に何度も蹴られ、自ら頬を何度も何度も平手で打ち続けるのを観ていて、素で心配になるわけだが、そのリアリティを演劇や、振付といった他の手法で代替しようとしたら、どのように可能であるかを考えてみると面白い。というか、かなり絶望的になる。ぼくたちは、そのもの自体以外の方法で、それに辿り着くことはできるのだろうか? 演劇人である村川と、ダンサーである倉田、松尾が出会うことで、演劇でもダンスでも味わったことがないような感覚に襲われたというのが、この作品の意義に他ならない。

 いわゆるダンス的な喜びも用意されているのだが、この期に及んでダンスするということは一体どういうことなのか、を問われるために提示されたとしか思えないような、真空の重さをもって現れる。倉田や松尾のいわゆる「よく踊る身体」が、マグリットさながら、「これはダンスではない」(?)と語るために動員されているようであるのが、痛く快い(痛快な)作品だった。

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