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2015年5月 9日 (土)

「踊りに行くぜ!!」Ⅱ vol.5

3月8日

「踊りに行くぜ!!」Ⅱ vol.5

秋津さやか「Blind piece」 
出演:西岡樹里、山本和馬、中間アヤカ

目黑大路「ナレノハテ」
出演:中西レモン、佐々木治己、目黒大路、大倉礼子(衣裳)

桑折現「To day」
出演:今村達紀、松尾恵美、山崎阿弥(声)、中川裕貴(チェロ、音楽)

ArtTheater dB神戸(神戸市長田区) 

 NPO法人JCDN(ジャパン・コンテンポラリー・ダンス・ネットワーク)は、既に上演されたコンテンポラリーダンスの作品を、全国で巡回上演できるようにと、「踊りに行くぜ!!」を、2000年から2009年まで実施してきた。コンテンポラリーダンスが全国各地に広がり、大都市圏以外の人たちの目にふれ、ワークショップ等を通じて体験の機会ができたことで、コンテンポラリーダンスの広がりに大きな役割を果たしてきたといえよう。さらに2010年からは、「踊りに行くぜ!!Ⅱ」として、以下のようなクリエイション+巡回プログラムに発展させている。

 「踊りに行くぜ!!」Ⅱは、“ダンス作品”の新作づくりに取り組むプロジェクトです。(中略)そのために、それぞれの作家がオリジナルな手法を見出し、作品制作に専念できる<ダンス・イン・レジデンス>を取り入れた2つのプログラムを用意し、全国公募より新作のアイデアを募りました。「A/ダンスプロダクション」 「B/リージョナルダンス」 ここからつくりだされる8作品は、全国6ヶ所<札幌・松山・仙台・福岡・神戸・東京>にて上演します。Aプログラムの作品は、巡回公演で再演を重ねブラッシュアップしていきます。

 この神戸公演では、比較的には振付家もダンサーも若手の秋津作品がB、目黒、桑折作品がAであった。

 秋津作品は、音の合図に従って、観客に眼を閉じたり開いたりするようにという指示から始まった。もちろん指示を無視することも可能だが、あえて指示に素直に従うことにした。暗転ではなく眼を閉じさせるというところに、舞台の段取りではないポイントがあるのだろうと思えた。
 言葉が使われるのだが、「こっちにおいでー」「こっちだよ」「早く行かないと最後になっちゃうよー」といった具合で、どのような場面かわからないが、一方的な善意を背景に、理由なく焦りを強いられているようで、非常にいらつく。強制的に(でもないのだが)眼を閉じさせられていることのフラストレーションのせいかもしれない。眼を閉じること、それに神経を払うことで、時間が分断され、作品が断片化されたように思えたのも、意図したところではあるだろうが、集中力を削ぐ結果になったように思う。
 眼を閉じたり開いたりすること、そして言葉、それが生起する感情(もちろん断片的ではあれ一つの物語も生成されている)が、この作品の全体像をどのように構成するかに着目したのだが、その不可欠性、必然性を感じるには至らなかったようで、残念だ。

 目黒作品は、まずそのコンセプトの徹底的な突飛さで目を引き、観客の度肝を抜いたといっていいだろう。3人の出演者が、もがいている。よく見ると、模造紙をつなげたような大きな一枚の革布にいくつかの切れ目が入っていて、その切れ目に手足や首を突っ込んで、拘束具のようになっている。何を目的としているのかは不明だが、3人ともどうかしよう、どこにか進もうとして、もがいている。首を突っ込み目もふさがっているものだから、舞台から落ちそうになっている者もいる。
 冒頭からいきなり、非常にインパクトの強い、シンプルでわかりやすく、身体的に共感しやすいコンセプトであり、それによって大の男たちがおそらく無意味なことに必死になっているという奇妙な世界に引き込むことに成功した。この拘束を社会的な現代の閉塞状況と重ね合わせることももちろん可能だが、ぼくの印象としては、そんな喩が吹っ飛ぶほどの必死の馬鹿馬鹿しさだった。ただここに、ダンス的身体である必要があるのか、そうであることの優位性が何かしら存在するのか、という疑問が残ったことすら、面白い。この3人のこのもがく姿を見ている限りは、ダンサーである目黒が何か鮮やかに水際立っているということなど、あるのだろうか?と。
 おそらくこの作品の肝は、この強烈なコンセプトで3人のそして観客の身体を等価に置き、その上で身体の切迫性を最大限に発揮させたことにある。さらに肝心なことに、革布から解放された後、といっても誰に強制され拘束されていたわけではなく遊戯性も持たなかったのだが、個々がその特徴を激烈に主張したことにある。
 佐々木はその極端な饒舌さにおいて、世界を徹底的に二重化する手つきの鮮やかさを見せ、言語の無化・透明化と現在の相対化に成功。笑いのうちに観客に明確な思想をすり込んだ。
 中西は極端に内向的な情緒障碍の子供を思わせるような、危うく自由な身ぶりと、巧みで不気味なテクストリーディング(シェイクスピア『テンペスト』中のゴンザーロの独白を説経節にして歌ったとのこと)によって、異才/奇才ぶりを余すことなく見せ付けた。かなり即興的な部分もあったと思うが、いちいち完璧な表情、タイミング、ポジショニング、声、節回しで、こいつは一体何者だったのか…と思わせた。つかみどころのない存在だ。
 目黒は、とにかく奇妙に、不自由に踊る。黒いスーツを着たところに、革布が落ちてくる。倒れる。ズボンの裾が変になっていたり、尻のポケットのあたりに異物が入っていて尻尾のようになっていたりして、身体のバランスが崩れている。その崩れたバランスのまま動くから、歪む。
 誰一人としてまともな者がいないが、非常に高度な「芸」を見た満足感でいっぱいだ。コンセプトの鋭さが作品総体の力強さになっている、稀有な作品だったと思う。

 桑折作品は、照明の美しさや、舞台上の木枠の変化による幾何学的な構成のせいもあってか、万華鏡のように様々な世界の断片が次々に照射されるような時間だったという印象が残っている。
 明確で強くアピールして来るものがあるわけではないし、物語の抒情を噛み締めるような感懐というのでもないが、暗さを味方につける桑折の世界の作り方を味わうことは、独特の自我剥落感にとらわれる出来事だ。
 今回は特に、音楽と身体と舞台美術や照明との関係の微妙さによって、その感覚が強まったように思う。チェロとヴォイスパフォーマンスとダンスが三つ巴に流していく時間が不自然に低回することで、シーンの既視感が激しく、また音のクレシェンドやアッチェレランドとダンスの激化が一致しないことで、焦燥や取り残され感が激しく、断片がその時間や空間の中に留まらず、余韻を残して続いているような感覚が残され、結果的にその重層性が予想外に激しい疲労を誘なう作品になったと言えるだろう。
 激しく動いている場面も多くあったのに、動きの少ない作品だったように思えるのは、額縁のような木枠が意識されたからというだけではなく、聴覚と視覚そのほかの感覚が、互いに押さえつけあうような関係にある作品だったからではないか。
 今村が、そこにいるのにいないような不在感、浮遊感を出していた。木枠の中の不在の存在のような「なさ」が滲み出ていた。逆にヴォイスとチェロの存在感はとても大きく、空間を支配する時間のようだった。松尾は激しくふてぶてしいのに、彼女もまた、そのタバコの煙のほうが存在感が強かったといっていいかもしれない。桑折の感覚が切実に共有されているようで、見ごたえがあった。

 余談だが、山本、西岡、中西、今村、松尾と、半数以上のダンサー、そして桑折が「ダンスの時間」経験者だったことが、少しうれしい。

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