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2015年7月

2015年7月14日 (火)

第20回京都国際ダンスワークショップフェスティバル記念ガラパフォーマンス 「Passing through」

4月30日

『奥のほう』 百田彩乃
『抱きしめあうと眠りづらい』服部哲郎+杉山絵理
『オランモス』 日置あつし
『SARU』 トム・ヴェクスレール+皆川まゆむ
『And yet, now #4』フランチェスコ・スカベッタ
『報復』 チョン・ヨンドゥ
『improvisation: point line face』アビゲイル・イェーガー
京都芸術センター(京都市中京区)
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 「暑い夏」と通称されるワークショップフェスを通過して現在活躍中の若手ダンサーと、本年度のワークショップ講師によるガラ・パフォーマンス。
 『抱きしめあうと眠りづらい』『SARU』と、男女のデュエットの作品が2点あると、どうしてもある共通性が生まれ、対比させられることになる。前者は2つの椅子を使って、互いにさぐり合うまたはさがし合っているような密着度の高いコンタクトを重ねていく、密度の高いストレートな作品なのだが、なぜか一つひとつの動きが受身的に振付けられたもの、タスクとしての動きであるように思われた。それがタイトルにあるようなある種の居心地の悪さ~眠りづらさ~を表わすものとして意図されたのならすごいのだが、今ひとつしっくり、しっとりしない。
 後者は、女が目隠し、男は鼻から下を布で隠した状態から始まることで、強い違和感を与える。じゃんけんをしたり、殴ったり、目隠しのせいで手探りで進んだり、すごいリフトを見せたりと、個々の動きのコンセプト、スピード両方の意味での鋭さ、コミュニケーションなのか反コミュニケーションなのか判断し難いコンタクト、等々鬼気迫るようで鮮やかだ。
 この2作品を比べたときに、なぜ前者にタスクを感じ、後者に感じなかったのか、よくわからない。前者には男女の身長差があったために、保護する/されるような関係が見え、後者は男女が対等に見えたからだろうか。前者のほうがややセンシュアルなコンタクトが多かったからだろうか。確かなのは、前者には、動きがいったん言語化されているような間接性を感じたことだ。これは少し考察を重ねていかなければならないように思う。
 百田はただ顫え、痙攣していただけのようだったが、やりきってしまうことの凄みは感じられた。
 日置は、狩衣のようなざっくりした衣裳で、舞楽を思わせるようなゆっくりした儀式的な動き。視線を固定して腕を開き、クイッと返してかかとからすっと足を運ぶ箇所など、流れるようで美しい。想定はしていないだろうが、この種の動きには何か物語か情緒のようなものがまつわりつく。それをうまく入れ込んで作品化するか、方法はわからないが削ぎ落とすかしたほうが、効果的ではないかと思うが、入れ込んでしまうと妙なモダンダンスのようになってしまうかもしれない。
 スカベッタは、カセットテープレコーダーを使った面白い構成。テレコを滑らせ、その近くまでにじり寄ったりダイブしたり、あるいは他者にバランスを崩されているような不思議な動きをとったりする。仕掛けの働きがユーモラスかつクールで、それと戯れるような動きが鮮やかで、非常にしゃれた作品だった。
 イェーガーは短いソロだが、動きの輪郭がはっきりと美しく、右手の遠心に導かれていくような素直でストレートであることにひかれた。
 チョンは、空間に対して身体のどの部分がどのように力を加えていくのかがはっきりとわかり、存在することの強さが実感できる、空間の中での位置の占め方の見本のような作品を見せてくれた。身体の様々な部分に意識を集中させることで、自在に神経をコントロールしている様が目に見えて、非常にスリリングだった。
 一方で、身体のシステマティックな動かし方もユーモラスに見せてくれた。身体を切り刻んで食べてしまうような振りも、具体的でいささかグロテスクでありながら、深いところで世界観、存在観に直結している。身体と存在という根源的なテーマを改めて考えさせられたようで、意義深かったといえよう。

■4月は他に、小清水漸個展「階の庭」(ギャラリーヤマキ・ファインアート、神戸・元町)、東學+月夜乃散歩「少女の化石」(SUNABAギャラリー、大阪・日本橋)、三輪正美展(ギャラリー開、神戸・栄町)、第8回「断片-16」(ギャラリーSHIMA、西宮)など

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火曜日のゲキジョウ/トランスパンダ「ケミカル・ブラザーズ」

Micro To Macro「クレイジー オレンジ フォー ユー」
作・演出:石井テル子
出演:小谷地希、石井テル子、田米カツヒロ、
西村恒彦(劇団自由派DNA)、田村晃司(violin)
トランスパンダ「ケミカル・ブラザーズ」
作・演出:ナカタアカネ
出演:上田耽美(耽美社)、奈須崇、ヤマサキエリカ、横田江美(A級MissingLink)、大竹野春生(第一次反抗期)、谷屋俊輔(ステージタイガー)
インディペンデントシアター1st(大阪市中央区)
 ナカタ曰く「「ケミカル・ブラザーズ」の物語は、丹波市氷上町→梅田→メンズ阪急→人並みに押されながら谷町線に乗る→天神橋筋六丁目駅の阪急オアシスらへんからマクドがあるアーケード。というトラパン史上初の関西な世界でした。」というわけで、ロードムービー的に移動して行く心地よさという味わいがありつつ、夫婦のふんわりしたやり取りに戻っていく幸せな物語だ。
 作品の読み込みについては、作者がブログ で懇切丁寧に解説してくれているから、あまり付け足す必要はないのだけれど、冒頭で主人公が交通事故に遭ったところで死んじゃってて、後は死にきれない男の幽体状態での出来事かなと思っていた。
 なお、この作品は、「30GP」というトーナメント形式のイベント公演(?)で再演された(6月27日の準決勝を観劇)が、その時は横田江美に代わってなかた茜、谷屋俊輔に代わって濱本直樹という配役となった。ウケを狙った芝居ではないので、トーナメントの人気投票ということになってしまうと最後まで残りはしなかったが、噛み締め甲斐のあるいい芝居だったと思う。小劇場系の芝居を2度見るということはあまりないので、役替りの面白みも含め、反芻できてよかった。
 ケミカルウォッシュ のジーンズというものを偏愛する主人公(上田耽美)。その偏愛の理由には、裏返しの母への思慕があった。……そんな解説を加えるのもちょっと野暮で場違いな感のある、ぬるポップな展開で、劇の筋より役者のTシャツに目が行ったり、奇妙な喋り方が気になったりする、表層的な滑りがスピーディで快適だ。物語としては、母親が不倫・失踪したり、浜田省吾を歌う男(奈須崇)の彼女が二股だったり、男女の関係の面倒な状況がいろいろと仕込まれている。しかしそれらが重みや湿度を持たず、たとえば二人の店員がよく似ているなぁというような印象と同じ軽さで流れていくのが心地よい。
 こういう心地よさは、作者の手つきや思い入れのようなものから滲み出てくるものだと思うのだが、手つきが見えることで心地よくなることと、作為性のように思えて鬱陶しくなることがある。最終的には好みとしか言いようがないのかもしれないが、いったん自分が作り上げた世界をクールに客観視しているかどうかというあたりがポイントなのではないかと思っている。もちろん、没入型の作風の作者もいるわけで、どちらがどうというわけではないが、ナカタについてはこのクールネスが小気味よい。
 Micro to Macroは初見で、何の予備知識もなかったが、楽器の生演奏とちょっといい話を組み合わせたような作り方だった。

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「蘇る白鳥」

4月28日、29日

出演:若林絵美(28日)、奥野亜衣(29日)、関典子、白河直子
兵庫県立芸術文化センター(西宮市)
Photo


 サン・サーンスの「白鳥」(「動物の謝肉祭」から)を元にしたダンス作品を3点並べた異色の公演。アンナ・パブロワやマイヤ・プリセツカヤで有名な、フォーキン振付によるバレエ作品「瀕死の白鳥」(1907年初演)を、彼のメモや広義の舞踊譜に基づいて復元したものを神戸大学及び大学院在籍中の若手バレエダンサーが踊ったのが一点目。関典子による新作が二点目。そして三点目として、白河直子がH・アール・カオス版を披露した。

 バレエ版は、フォーキンのオリジナル振付をできるだけ忠実に再現したもので、兵庫県立芸術文化センター所蔵の薄井憲二バレエコレクションの資料を駆使して、同コレクションのキュレーターである関典子や学生が読み解いたもの。結果的に、今様々なダンサーで見ることのできるものとは、少し違った振付になっていて、興味深かった。フォーキンの資料は、たとえばラバンの舞踊譜などとは違って、写真と楽譜にメモを書き込んだもので、合理的といえば合理的だが、身体の外側からのアプローチであるように思える。モダンダンスの記録を目的としたラバノテーションに比べれば、バレエは形が決まっているので、これで十分なのかもしれない。端整な印象の残る若林、感情を表に出すタイプの奥野(写真・撮影:山下一夫。奥野のFacebookから)と、2羽の白鳥を観ることができ、興味深かった。
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 白河によるH・アール・カオス版「瀕死の白鳥」(2010年初演)を初めて観たが、言葉もない。この場所は西宮の特設舞台であり、見ているのは踊る身体であるのだが、見えている、いやふれているのは精神性や霊性というべき何ものかであるという奇蹟のような時間である。静かさは切り裂かれるためにあり、切り裂く鋭さは静まるために提示される。動きは中から出てくるというよりも何かに吸い込まれた受動のようであり、踊り手の意思や振付家の意図など介在しない必然のようだ。白河が白鳥であろうとしたのだったら、その前に白河でなくなり、空白になっただろう。その空白、無を強く意識できる、息詰まる上演だった。(写真はウェブサイトdance+から。撮影=小椋善文http://danceplusmag.com/?p=14225

 関は新作として瀕死の白鳥であろうとした。かつてH・アール・カオスに在籍したこともある関は、どうしても白河と相通じる点があること、そしてH・アール・カオス版「瀕死の白鳥」と並ぶことを意識しただろうし、そう見られることを知っていただろう。おそらく、だから、白河とはいくぶん異なるテイストを出そうとして、少し動きすぎたのかもしれない。アクセントとしてあえて損な役回りを、引き受けたのかもしれない。しかし結果的にそれは、瀕死である白鳥の、静謐に向かう心性より、現世に留まりたいともがき足掻く姿や思いであるようだった。その意味で2羽の現代の白鳥はみごとな表裏をなし、美しさと厳しさにおいて、双璧をなした。

 この上演は、薄井コレクションのキュレーターである関が、コレクションとは「歴史的な過去ではなく、現在にも息づいている」、スタティックなものではなく、ダイナミックなものである(べきだ)という思いから実現に至ったものだ。このコレクションからは、たとえばバレエ・リュスのダイナミズムや、ロマンティックバレエの優雅さといった、身体、舞踊が時代を揺り動かした息吹が感じられるように思う。それは薄井氏自身がダンサーと研究者との複眼を持ち、また関も同じ複眼を持っているからこそ実現されるものだろう。芸術文化センターが博物館的な展示施設を常設することはもちろん望ましいが、コレクションが身体化され、動きを伴って現われることは、非常に悦ばしい。今回の企画展も規模としては小さなものであったかもしれないが、ダンス・パフォーマンスと合わせて見ることで、コレクションが立体化し、パフォーマンスに奥行きと広がりが生まれる、すばらしいものだった。今後の展開が楽しみだ。

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「今晩は荒れ模様」

4月25日

構成・演出・振付・出演:笠井叡
出演:上村なおか、黒田育世、白河直子、寺田みさこ、
 森下真樹、山田せつ子
京都芸術劇場・春秋座(京都市左京区)

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 舞踏家として世界的に重要な存在として認められている笠井が、現在の日本を代表する女性ダンサーと創った長編。ダンスの技術力も表現性も非の打ちどころのない女性ダンサーを6人集めた公演だけに、彼女たちをどのように料理するのか、その手つきに興味があった。1943年生まれの笠井は、モダンダンスやクラシックバレエを学んだ後、大野一雄、土方巽と出会って舞踏の世界に入り、’71年に自らのカンパニー「天使館」を設立。一時期オイリュトミー に専念し、’93年にいわゆる創作活動を再開した。(写真は東京公演ラストシーン。中央奥が笠井。bozzoのウェブサイトから)
 ざっくりした印象としては、笠井というキャリア豊かで今なお研ぎ澄ましたような身体を持つ優れた表現者の、奔放な悪夢のような世界の中で、囚われた女たちがある者はノンシャランに、ある者は急かされるように、ある者はわがままに姿をさらしている、というもの。
 黒田は極端に息づかいを荒く、時に嗚咽しているように見せながら、過剰なドラマ性またはパロディ的な諧謔の見られる踊りぶりで、あえてバレエのよさも黒田のよさも削り取って、動かされているように見えた。寺田は身体の線を見せた総タイツ姿で、上体に重い荷物を載せたカマキリのような格好に構えては崩れていく印象的な動きが美しい。続いて黒田と寺田が同時に舞台に立つがほとんど絡まず、同じ動きを見せるが、バレエのスタイルを宙吊りにして斜めから見やるような態度であるように思える。比較すれば、寺田は内面で、黒田は外面でバレエを宙吊りにしているように見えて、興味深い。二人の引っ込みとかぶるように笠井が現れるのだが、やや必要以上に舞台を聖化する態度であるようで、不思議に思えてくる。
 続いて森下と上村が現われ、硬質な動きで何か喋りながら戦うふうである。特に面白くすることも美しくすることもなく、振付の手つき、言葉と動きの関係づけの手つき、あえて滅裂な場面を作ろうとして言葉や動きで重さや深さを削いでいく手つきを露わにしているのが、メタな前衛実験のようで、その実験の実行者の意図を探ることに忙しくなる。
 さてここで、後方から静かにゆっくりと現われる何ものかが、どこかこれまでとは違う空気を帯びていると思ったら、はたして白河だった。(写真は、朝日新聞デジタルのウェブサイトから。撮影:池上直哉)
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 これまで出てきた4人のダンサーに対しては、笠井が何らかの形でデコンストラクトしているように思ったのだが、白河にはその手が及んでいないように思えた。がむしゃらに美しく、狂乱しても崩れず、動きを連続させるその瞬間瞬間で空間を創ることのできる、稀有なダンサーであったことを、改めて知らせてくれる。それはそれでよいとして、では先ほどまでのいくぶん抑圧的な笠井の手つきは、何だったんだろう、という思いにもとらわれる。
続いては山田が人形のような銀髪で現われ、動きの始まりが鈍角であるような不思議なダイナミズムを見せる。やがて笠井が遠くで絡む形のコミュニケーションを図り、師弟関係にあった二人のこなれたデュエットが、美しくも緩やかで微温な時間として流れていく。すれ違いざま倒れた笠井が激しく細かく痙攣するが、意図された昏倒のようにも思う。
ラストは赤い光で激しさをかもし出し、笠井の意図的に激しさを強調する動きが続く。女性ダンサーも加わり、乱舞の場面として作り上げられていく。自由を感じさせるダンサーもいれば、タスクを感じさせるダンサーもいるが、確かに荒れ模様だなと、皮肉でもなんでもなくタイトルを思い出すことになる。後味としては、笠井のやや古体で大振りな手つきの存在・介在が常に作品を支配しようとしている意思が露わな、不思議な時間だったとしてよいだろうか。

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2015年7月13日 (月)

極東退屈道場「タイムズ」

4月24日

作:林慎一郎
演出・美術:佐藤信、振付:原和代
出演:あらいらあ、石橋和也、井尻智絵、小笠原聡、
後藤七重、猿渡美穂、中元志保、船戸香里
アイホール(伊丹市)
Times


 本作のOMS戯曲賞特別賞受賞を記念して、その審査員だった佐藤信 が「演出してみたいんだよね」といったことがきっかけで実現した公演。ベテランが若手(林は1977年生まれ)の作品を演出ということでも話題となった。佐藤の舞台美術が非常にシンプルですっきりしているのに比べると、劇の中身はずいぶん複雑なように見えた。芯のところでは、シンプルなロードムービー的な展開だといえるのかもしれないが、様々な仕掛けによっていろいろなことやものがどんどん見えなくなってくる。それを楽しむことができればこの劇は楽しい。
モノローグが多用され、いきなり脈絡の(見え)ないシーンが挿入され、不思議なラップのようなリズムに追い立てられて、さっきまでの場面がわからなくなる。林が「「昨日」と、「今日」と、「明日」と。」とプログラムに書いている時間軸の意識あるいは混乱が、言葉や演技によってではなく、劇の構成によって、観客の側で生成されるのが面白いといえるのだろう。
 タイトルは、コインパーキングの名前。場面はゼビウス から始まる。ゼビウスを「カンスト」 するまでの数時間、いかに尿意と戦うかという物語で、非常に面白い。ここで生じる期待が、仇にもなる。続いて帰宅困難者である女性たち。当然大災害の発生を想起させられるが、帰れない彼女たちが手に入れたものは未確認生命体(UMA)、馬だ。そして、横浜大洋ホエールズのスーパーカートリオ(俊足選手のトリオ。1番高木豊、2番加藤博一、3番屋鋪要)やポンセに話が及び、乗馬の連想で西部劇の場面へと転換、近松門左衛門「国姓爺合戦」を引用して路上で囲碁をしているから渋滞で前に進めないとか、帰れない人たち(帰宅困難者)を見せるのだが、必ずしもそれが主要なテーマでないだろうことを念押ししているようだ。
 このようにひっくり返したおもちゃ箱のような要素過多の状態ではあるが、そこに何らかの脈絡があるとすれば、かすかに細い糸を結ぶような言葉遊びのようなもので、それは一見すると場当たり的で、全体の統一性を顧慮していないようにも思える。設定されている以上に混乱して受け止められるのは、挿入されるエピソードの奔放ぶり以上に(エピソードのさなかは、ただ黙ってエピソードを楽しんでいればいいわけで、そうできる程度には楽しめるエピソードが連なっていた)、混沌を回収する意思がないような手放し感を受けるからだろう。そんな混沌をセリフのスピード、動き(ダンス)のキレが突き抜けていくのが快感となる。終わったときの疲労感とは別に、しばらくたって振り返ると、もう一度観るべきだったなと思ってしまう。

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突劇金魚「ゆうれいを踏んだ」

4月16日

作・演出:サリngロック
出演:片桐慎和子、山田まさゆき、有北雅彦、
大畑力也、殿村ゆたか、ののあざみ
S-pace(大阪市都島区)
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 設定は実に奇妙だ。買い物の途中にゆうれいを踏んだばっかりに、落語の「あたま山」 よろしく、頭のてっぺんから桜の樹が生えてきてしまった女性(片桐)の半生の物語。包帯でくくりつけているわけではないが、ほぼチラシの通り。
 話の筋について書き連ねることはしないが、桜の樹が生えるという異形の者となってしまったことが、意外に多くの人にさほどの違和感なく受け入れられている。そのすんなりをあっさり表現できて、観る者にフフッとほくそ笑ませるのが、片桐の魅力だろう。彼女は、演劇の中で起きる現実に対して、上半身を動かさずにあわあわと見送るのが特徴的だと思う。そのような態度は、もちろん作者のサリngロックのものでもあって、思い返せばかなりダークな現実がリアルに描かれていたはずなのに、遠い。それは一種の逃避的な姿勢・態度から生じる距離感かもしれないし、やりきれない面倒くささによるものなのかもしれないし、ただ現実をよく理解できていないだけのことかもしれない。いずれにせよ、確実に巻き込まれている。
しかしそのように思うのは、その出来事を一般的な出来事として解釈するからであって、実のところこの遠さは強さに他ならない。
 
本人同様、淡路島の親戚も、恋人も、変な劇団の座長も、彼女の頭の桜を特別視はしていない。座長は利用し、恋人は心配し、親戚の一人はうらやんだりやっかんだりする。祖母だけは嘆き悲しむが、それは異形の者になったからからというよりも、そのことで彼女が平凡な結婚を諦めざるを得ないからのようだ。 
 昨年9月の『漏れて100年』(アイホール)は、結果的には珍しく直接性が目立ったようだったし、ある出来事に反発し何事かを打ち立てていく劇のように思えた。その後の作品ということで何かテイストが変わっているのかと思っていたが、目に見えてその方向で変化したようには思えなかった。やはり何事かの到来を呆然と見送り、さして強い意識なく受け入れていく主人公であるように思えた。その強さが増していたかもしれない。
 受身でのっぺりしていながらしたたかな存在であるという印象を、片桐は実にうまく立ち昇らせる。片桐の姿が、サリngロックにこんな芝居を書かせているとも思えるぐらいに。そしておそらくサリngロックは、片桐の中に受身で呆然としているだけではない強い芯のようなものも見ているのだろう。
 ところで、『桜姫』では一部の、『ゆうれいを踏んだ』ではすべての役者が、顔を白塗りにしていた。非現実性とか彼岸らしさとか人間離れと言われるが、生きているのか死んでいるのかわからない曖昧な境界らしさがよく湧き出ていた。そう思って振り返れば、両作とも誰が「ゆうれい」でも不思議はない。特に『ゆうれいを踏んだ』では、みんなが血に足をつけず、地上5cmほどを浮遊しているような印象がある。世間的な常識では「当たり前」でないことを、ごく普通に受け入れ、そこから次の事態を発想するものだから、とても奇妙なことになる。夢の中の人々のようでもあるが、それが悪夢なのか吉夢なのかといわれたら、結果オーライと受け入れるべきなのかなとも思う。

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エイチエムピー・シアターカンパニー「桜姫-歌ヒ鳴ク雉ノ行方」

4月14日

原作:鶴屋南北『桜姫東文章』
作:くるみざわしん(光の領地)
演出:笠井友仁
出演:高安美帆、森田祐利栄、斧ようこ、
ナカメキョウコ、米沢千草、杉江美生、水谷有希、
原由恵、中村彩乃、澤田誠
ウイングフィールド(大阪市中央区)
Sakurahime


 歌舞伎の名作『桜姫東文章』を下敷きにした実験的なロングラン公演(14日~26日)の初日に観劇したわけだが、非常に完成度が高く、時間に螺旋するうねりのようなものが生まれているように思え、回を重ねたらどこまで濃密なものになるか楽しみに思われた。もう一度観ればよかった、せっかくロングラン公演だったのに、と後悔しきりである。
 舞台を大阪の島之内界隈、まさにウイングフィールドあたりに定め、四天王寺の高僧となった清玄と、長柄の橋を造営する際に人柱にされた男の娘である桜姫との物語とした、くるみざわの意欲作。
 くるみざわと言えば、神戸学院大学グリーンフェスティバルで観た『坊ちゃん』 では、漱石の古典を自由にいたぶり(笑)、原発問題にひっかけたりして作品の軸を揺り動かしていたが、今回は少なくとも一見のところ非常にオーソドックスでクラシカルな構築物としての作劇となったように思われた。
縦長のウイングフィールドを90度回転させて、横長幅広の舞台にしていたのが新鮮。こじつけではなく、左右に川が流れているような感覚になったのが、斬新だ。
舞台裏でよく使われる箱馬を自在に組み合わせてスクリーンとし、プロジェクターから映像を投射する舞台美術は非常に斬新に思われたし、シモ手のほうに語り手のような役割で口上(澤田誠)が控えていたりするのも、合わせて構造的な見栄えで、面白い。
たしかに、この芝居は、いくつかの構造が重ね合わさっているのを楽しむことができる。それは原作の「桜姫東文章」の構造でもあるだろうし、長柄橋人柱挿話を付け加えたことで生成された構造でもあるかもしれない。
桜姫の父親が人柱にさせられたのは、何も運命や犠牲心やといったドラマティックな物語によるものではない。「垂水(現吹田市垂水町)の長者・巌氏が「架橋を成功させるには人柱が必要。袴につぎの当たった者を人柱に」と役人に進言した。ところが自分の袴につぎがあり、巌氏は心ならずも自らの失言により、人柱になったと言う。この話はこれで終わりではなく、続きがあり、河内禁野の徳永氏に嫁いでいた巌氏の娘・照日は父の死を悲しみ、物言わぬ人となってしまった。」 と「大阪再発見」というウェブサイトに記載のとおりの、見ようによっては間抜けな話だ。しかし、この挿話を組み合わせることによって、桜姫が唖者であることと、父の「非業」の死という二つの聖性が与えられた。それによって、桜姫の天上性が増し、釣鐘権助や残月その他多くの者たちの俗性が際立ったのも、言うまでもない。
そしておそらくこの上演の肝となったのは、そのことによって、すべての人物に一種の浮遊性が与えられたことだろう。清玄の浮遊感、そして権助には跳躍する躍動感を帯びて舞台を縦横に跋扈した高安の二役は、無垢な頽廃と放恣な悪を極端な形で体現した。二役を往き来することで、両者の間の距離による速度が生成されたことが、すばらしい。舞台の上を駆けたとか歩き回ったとかではなく、彼(女)が現れるだけで観客の想像力が全速力で回転したということで、その喚起力は凄まじかった。
僧残月を女優(森田祐利栄)が演じるとは、意表を突かれた。声も挙措もいい役者なので、男を演じること自体特に驚きはないが、宝塚歌劇もそうであるように、女が演じる男と、女との濃密なラブシーンには、えもいわれぬ倒錯的なエロティシズムが立ち昇る一方で、無償性につながる純愛性が生まれてくる。残月と腰元長浦の関係は、もちろん純愛とはいえないかも知れないし、つぶさに描かれているわけでもないが、一事をきっかけに奈落まで行き着く二人の墜落の物語は、清玄と桜姫のサブストーリーと片付けるにはもったいないほどの激しさがあり、それを生ききった残月と長浦の濃密さには打たれた。
さて、桜姫の米沢には、舌を巻いた。前半は比較的静かな演技で、こんなものかと思っていたら、後半の渦を巻くように頽廃と倒錯の一途をたどる速度感が、凄まじい。あれよあれよと色気を増し、ファム・ファタルの無垢な官能性を身に帯びる。遊里に売られ戻ってきて、お姫言葉と女郎言葉がごちゃ混ぜになったセリフ回しなど、歌舞伎でも見せ場の一つだが、なかなかの迫力で、桜姫に二面性があることを気づかされる。白菊丸との男女二役ということもあり、演劇の中で存在していることの面白さが堪能できる存在となった。
3時間近い長編だが、全く長さを感じさせなかった。荒唐無稽な部分はある程度残しつつもずいぶん刈り込み、物語としての面白さを太い骨格として残していたのが、効果的だったのだろう。やはり演劇は(芝居は)、たとえ荒唐無稽であれ、筋の面白さがあると強いなと再認識させられたと言ってもいいかもしれない。なんだか少し悔しいような思いもあるが。
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(舞台写真は、劇団のtwitterから。左から、残月の森田、清玄/釣鐘権助の高安、白菊丸/桜姫の米沢)

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「アソシエイトアーティスト・ショーケース」

4月10日

 出演:岩渕貞太、キタモトマサヤ、多田淳之介、田中遊
アトリエ劇研(京都市左京区)

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 今年度からアトリエ劇研でスタートした「アソシエイトアーティスト」という制度の紹介を兼ねて、その中から数人のアーティストによるショーケース公演を行ったもの。
 多田の東京デスロックのメンバーによる「CEREMONY(新ディレクター就任お祝い ver.)」は、役者同士、役者と観客が挨拶するという「挨拶の儀」に始まり、「劇場の儀」と題して、全国各地様々な劇場での役者の体験、思い出を語りその芝居の一節を再現するという劇場頌のような場面、そしていわゆる「劇場法」前文を夏目慎也が読むという、「儀式」であることを狙った作品。
 昨年、横浜、高知、福井で上演された「CEREMONY」を観ていないし、藤原央登の劇評 を読んだ程度で、きっちりと追いかけられているわけではないし、記憶では東京デスロックを神戸と京都で2作ほどしか観たことがないのだが、真意や底意といったものを汲み取りにくい作家だという印象がある。新ディレクター(あごうさとし)の就任を祝うということ自体、アイロニーでも嘘でもないだろうが、それを作品として公開することに、どんな意味があるのか考えてしまう。ましてや、劇場法を声に出して読むという行為が、劇場法を称賛しているのか揶揄しているのかニュートラルなのか、コンテクストなしにはわからない。つまり、観客の居心地をとても不安定にさせるわけで、それがねらいであれば、成功したといえるかもしれないが、何かありげな雰囲気を作って、結論は回避しているようで、愉快ではない。そのことについて、逃げを打ってもいるように見える。
 2009年に神戸アートビレッジセンターで上演された「演劇LOVE」については、簡単に書いたことがある。 「若い子たちがノリのいい音楽をきっかけに、何となく盛り上がって盛り上がって、いつの間にか熱狂になって、それがいつの間にかごく自然に殴り合いの惨劇になっている」、「そういう恐ろしさについて、何も語らない。」ことについての、やや懸念を指摘しているのだが、ダブルバインドをなるべくダブルバインドのまま躊躇なく放り出すという面白さがあるというべきか。このような一見の素直さが、変な形で利用されたり、過剰適応するようなことになったりしなければよいが。
 田中の「ルーパー1」は、iPad用の1人で声や色々な楽器をプレイしそれをオーバーダブしながら1曲を仕上げるというルーパー・アプリケーションを演劇に応用、1人でダイアローグができるような設定にした上での、一人芝居。大山崎インターの入り口が複雑で…という話から、謎の人物が現れる、ちょっとホラーっぽいお話。芝居の内容と同じぐらいに、その仕掛けに興味が分散してしまう。「スピーカーから「過去の音(記録)」がセリフにBGMに環境音になって 「今の舞台空間」に注ぎこまれ、男はそれを攪拌する」と解説されていて、そうには違いないのだが、仕掛けのわりには物語が素朴で、また仕掛けを操作する生々しい手つきのようなものが十分に徹底的に作品化(または非作品化)するための、まだ過程であるように思え、残念だった。
 キタモトマサヤ作・演出、遊劇体の「インプロで固めていった即席エンゲキ」(と、キタモトがブログで解説している)「蜜月フラグメント」は、強烈な原初的エネルギーを散乱させるような激しい、少し古風な香りのする作品。「連作戯曲〈ツダ・シリーズ〉から抜粋された台詞によって再構築される朗読劇」ということで、確かに断片めかしたメモのようなものを拾い上げては読むという動作が見られたが、その設定にもかかわらず、熱くためらいのない演劇化への強い意志が感じられ、たいそう面白かった。
 キタモトのブログには「遊劇体の〈核〉のようなものが、むき出しになったような出来ばえ(?)であると、私は感じました。本来、練り上げ、磨き上げて舞台にのせるものが、素材としてドンと在る、みたいな。〈エンゲキ〉に対する、ウチの思想もまた、丸ハダカのままです」というコメントがあったが、遊劇体がそのような丸ハダカらしさを持っていることがよくわかったように思う。それを実現するための言葉と、言葉を空間化、立体化する役者の存在感が、拮抗して寄り添ったり裏切りあったりしているんだろうと思う。
 岩渕貞太「斑(ふ)-ソロバージョン-」は、同題の昨年3月 に発表された「境界線をテーマに発表したトリオ作品の、ソロバージョン」だそうで、滑らかなのに流れ過ぎていくのではない、独特な時間を持っているダンサーであるように思われた。それはおそらく、身体が複層化しているからだろう。内面と外部というのではなくて、筋肉の一番外側と次の層とまた次の層…とかが違う流れ方をしているようなことになっているのだと思う。スムーズさの裏に隠れているので、漫然と見ていると気づかない感じだけれど、2つの時間を抱えている稀有なダンサーだと思われた。
 そして、この公演では、影を意識させた。3人の作品だったのがソロになったからかもしれないが、影というものはいったい他者であるのか違うのか、身体と影の間にはどれほどのスリリングな懸隔があるのだろうかと、そんなことも想像させられた。
 ところがぼくは、この作品で影が重要な機能を果たしているらしいことに気づくのが遅れ、最初の三分の一ぐらいだろうか、影に注意を払うことができていなかった。とても悔しい。
3人が出演した初演と、ソロのこの上演では、他者という存在についての意識がどのように変化したのだろうか。複数の他者という存在が不在へと転換したのか、そもそも他者は他者として存在していたのかとか、見なかった作品のことを悔しがりながら夢想する、そういう作品でもあった。

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4月文楽公演

4月8日、19日

【第1部】
靱猿(うつぼざる)
吉田玉女改め 二代目吉田玉男 襲名披露 口上
一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)
熊谷桜の段/熊谷陣屋の段
卅三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)
平太郎住家より木遣り音頭の段
【第2部】
絵本太功記(えほんたいこうき)
夕顔棚の段/尼ヶ崎の段
天網島時雨炬燵(てんのあみじましぐれのこたつ)
紙屋内の段
伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)
火の見櫓の段
国立文楽劇場(大阪市中央区)

Tamao

 少し痩せた二代目吉田玉男、一谷嫩軍記の熊谷次郎直実は確かに初代を髣髴とさせるような凛とした気迫が感じられ、気持ちのいい襲名披露だった。
 襲名というものは、優れた芸能者の芸風の継承ということだが、特にえもいわれぬオーラのようなもの(品格と呼んだほうがよいかもしれないが)を継承するという意味があるように思う。本来、オーラ、品格なるものは模倣や継承が困難なものだろうが、名を継ぐことで、それを含めた全体を受け継ごうという姿勢自体が面白い。
 玉女のままでは、この直実で見せたような、身体の重心をやや後ろ目に引いて、凛とした気合でぐっと前に押し出していく大きな距離を取れなかったのではないか。
 といっても1968年に入門したのだから、芸歴50年近い大ベテランである。入門以来の玉女の名が、初めて変わることになったわけで、その意味で大きな転機と言えるはずだ。長年弟子として初代玉男からは深い薫陶を受けてきたわけだが、その長年の蓄積がポンと形になって現れたように見えたのは、やはり襲名という儀式の力だったのだろう。
 今の人形浄瑠璃界の懸案は、住大夫と源大夫が引退して太夫の人間国宝がいなくなっていることで、やはり重みに欠けることは否めない。もちろん、その分それ以下のベテラン、中堅がひしめき合っているわけだが、実際問題として切場語りが少ないために、切場を奥と称して上演しているのは、やや物足りない思いがある。
 芸にとって名は単なる形骸でないのは、襲名披露というものが与える器量のような大きさに顕著に見られることで、それを玉男で実感した以上、多少無理でも引き上げることは、弊害よりは効果のほうが大きいように思えるので、なんとか早めに[次]を用意したほうがよいのではないだろうか。
 素人目があまり大したことをいうのは禁物だが、古典芸能は、全般に極端に高齢化しているのではないか。円熟から枯淡を貴ぶのはよいけれども、枯淡以降の枯れ切った芸をあまりにもてはやすのは、どうだろう。咲大夫、津駒大夫、三輪大夫、津國大夫といった昭和20年前後生まれ、70歳前後の太夫の一層の充実が待ち遠しい。
 さて、卅三間堂棟由来というのは、好きな演目だ。梛の木の生まれ変わりである平太郎と柳の精が人間に生まれ変わったお柳が夫婦となり、子をもうけるという設定自体、荒唐無稽だが、なぜかそこにあまり無理を感じさせない収まりのよさがある。
 木遣り音頭の段、奥を語ったのは津駒大夫、三味線は鶴澤寛治。以前から津駒大夫には惚れ惚れさせられるが、ここでもまたすばらしい色気と哀切がにじみ、非現実的な設定を飛び越えて理不尽さを一層際立たせた。お柳が簑助で平太郎が簑二郎。すっかり抑え気味の表現が板についた簑助だが、お柳を遣うには、まさにちょうどいい、相応しい境地を得ているといえるのではないか。
 他には、絵本太功記で尼ケ崎の段の鶴澤清治の三味線が、時折透き通るように無化して聴こえること、十次郎と初菊が作る三角形の造形的美しさ、十次郎と母・操の舞い語りの美しさ、光秀の大柄を示す姿の迫力、後場の千歳大夫、富助の迫力、団七の三味線の強さ。火の見櫓の段では、お七の舞はさすがの見せ場。

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「大行進、大行進」

4月5日

 作・演出:山下残
 出演:山下残、司辻有香
 舞台美術:カミイケタクヤ、舞台監督:浜村修司、
照明:吉田一弥、音響:奥村朋代
アトリエ劇研(京都市左京区)

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「若手技術者の育成を主題に、劇場スタッフが講師として参加し、山下残の代表作を、若い技術者と共にリクリエーション」したもの、という公演の趣旨からして、線路を中心に、廃材をぶちまけた瓦礫のカオスのような会場であることを、不審にも思い、妙に納得できるようにも思いながら、開演を待つことになる。
作品「大行進」は、2010年に高松で初演され、角地で上演されたもので、京都では初の公演となるらしい。それを山下自身と司辻の異なるバージョンで二部構成で上演する。山下と司辻では、舞台美術が(構成要素はほぼ同じだが)大幅に変わっており、短い休憩時間の間に「舞台技術スタッフのためのワークショップ」受講生が転換に力を尽くすことになるわけだ。
作品は、山下らしい、一見ゆるい独白を主とするものだ。楽屋で司辻とどんな話に花を咲かせているかという話に始まり、突然舞台美術の小道具の置物を指差したり手に持ったりして「熊が暴れる」「鳥が落ちる」「魚が溺れる」などと大声で叫び、「大洪水!」「危ないですよ、皆さん、逃げてください」と観客に呼びかける。
もちろん、観客は誰も逃げたりしない。「大洪水は来ていない」という認識があること以上に、舞台空間の中で演者が口に出すことはフィクションだという先入観がある。これがもし、舞台監督の浜村さんが急に出てきて、会場の外に出るように促したら、観客は動いただろう。こういう観客への「揺らし」も山下の真骨頂だなと思いつつ、居心地が悪くなる。
また、長いはしごを使って天井近くまで上り、ネズミと叫び、はしごをドスドスと床に打ち付けるのだが、これが見ていて怖い。少し滑ったり手許が狂ったりしたら、倒れる。それを意識してか、執拗に、必要以上に露悪的なまでに打ち付けるのが過剰だ。
その後、線路を奥から四つん這いになって進んできて、「大火災」「大震災」と叫ぶ。何か危機的な状況であることを、根拠なく無理やりに口に出すことで現出させようとしている。先ほどの「逃げてください」に続いて、舞台での言葉の機能について、考えさせられるシーンである。
このはしごから線路までを長いピークとして、作品のテンションは緩やかにデクレシェンドしていく。いちごのど飴をばら撒いて「大地の恵み」と言いながら拾い集めたりする姿は、みごとに一貫して変な人であったわけだが、それが山下本人の佇まいと重ね合わされたり、微妙なずれを生じたりしていることを楽しむこともできる。作品の中のリアルとは何なのかという、「逃げてください」にも連なる戸惑いである。
注目の舞台転換は、前半は観客もそのまま公開の形で、後半は観客を劇場の外に出して行われた。なるほど、線路の向きが変わるなど、大幅な変更があり、それに伴って照明の吊り位置や向きも変えたのだろう。そもそも瓦礫、廃墟のような、秩序があることを意識しにくい状態が作られているということの面白さが感じられ、それに関わる人の顔も見えたのが、印象に残る構成だった。
後半の司辻は、ほぼ山下の構成をふまえ、なぞる形での上演でありながら、性差が強調されていたのは興味深かったし、ダルネスとでも呼んでよいだろうか、エッジを立てずにがむしゃらに押してくるような強さが山下の作風をよく吸収していると思われて、興味深かった。 (写真は、山下残のウェブサイトから)

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サーチプロジェクト「ニュー“コロニー/アイランド”~“島”のアート&サイエンスとその気配」~仮設空間 中之島粘菌都市 ネットワーク仮想空間

4月4日

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 「生物物理学の研究者、建築家ユニット、メディア・アーティストの異なる専門知と固有の感性を横断しながら展開される」というふれこみの展示で、非理系の人間には概要をつかむまでにずいぶん時間がかかったのだが、「粘菌」という言葉を手がかりに、明示されてはいなかったようだが中沢新一の『大阪アースダイバー』の考え方を思い出しつつ、それらの概念把握の相似性、フラクタル性を、この人たちは楽しんでいるのだろうなぁと、理解しきれないながらも想像することはできた。
 まだるっこしい言い方で申し訳ないが、到底この前提となる知識や、そこからこのインスタレーションに立ち上がるプロセスを把握したとは言えない。けれども、島という固有性、それと類似性を持つ「コロニー」という概念の多様性の中から生物や細菌の集落を想起、そして単細胞でありながら迷路的な動きをとる粘菌や茸等の菌類……そういう粘りのある飛躍が面白く、その中に神社まで出てくるものだから、これはかなり遊戯的/飛躍的思考を楽しんでいるのだろうなと想像できた。
 プロジェクトメンバーは、理学、電子科学、建築、芸術という様々な専攻分野から集まってきているのだが、もしかしたらそこに「芸術」という視点がなければ、このように一つの展示とはならなかったのではないか。
アーティストの一人yang02は、身体性を伴った文字表現や、公共性などを主なキーワードに、デジタルメディアを基盤とした研究・制作活動を展開、人間の身体性を感じさせつつも、シンプルな仕組みで複雑な結果を生む“Bot”を基本コンセプトに共同制作を継続している。
また、稲福孝信は、自作のソフトウェア/ハードウェアを用いたインスタレーションやパフォーマンス作品などを制作し、プログラマーとして他作家のサポートや舞台制作、Web サービスの開発などにも携わっているそうだ。
この二人の経歴を見ても、コンセプトを形にして見えるようにすることが、この企画の主眼であったように思える。
 ゲニウス・ロキ という言葉がある。「ある場所の特有の雰囲気」や「土地柄」という意味で使われているようだ。大阪の中心部に位置する島である中之島を、川との関係において、長い年月の間の変遷を流体的に捉える時、人が紡いできた歴史的経緯だけでなく、生物が営んできた生理学的地政とでも呼ぶようなものがあって、それを鎮め慰めるためにも神社のような存在が必要なのだろうと思え、刺激的だった。

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作間敏宏展「治癒」

4月4日

+Y GALLERY(大阪市中央区)
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 本当は3月で終了していたようなのだが、階下に案内が貼ってあったので気づかず階段を上ったら、他にもなぜだかA画廊のご主人や関東からの女性も見に来られたようで、物音に気づいた画廊の人が開けてくれた。
 半透明の厚紙か樹脂のように見えるのだが、簡易な骨格と丁寧に編み込まれた刺繍のような装飾で組み立てられた小さなマケット(模型、雛形)をまず目にし、隣接した暗い展示室では豆電球を巻きつけた小型の家が光っている。奥の壁には家か倉庫を写したように見える、焦点が合っていないと思われる白黒写真が投影されている。
 思い出したのは、芦屋市立美術博物館で見た杉山知子の「たった1000軒のいえ」だ(http://www.cap-kobe. com/studio_y3/2014/06/06123852.html)。素朴で少しファンシーな印象のある家の作品。作家が家の外側、骨組にこだわることのもつ意味は何だろう。
Sugiyama

 家らしき写真の焦点が合っていないのは、抽象化ないし曖昧化しようとする意図があるのだろう。たとえば「誰某の家」とか「私が生まれた家」といった特定の家ではなくするための作業であるように思われた。
 ところがと接続すべきかどうか、この写真はインターネットから「家の画像100枚を積み重ねて合成処理された画像」であるという。そのことを知らずに、また作間が宮城県出身だということも知らずに見た。
 それらの情報を得ることで、やはり作品への向き合い方が変わる。深まると言っていいのだが、この場合はもっとウェットに、ドラマティックに、センチメンタルになる。そのいわば物語化が作者にとって、また美術にとって望ましいことなのかどうかはわからない。「震災後の美術」として回収され、定位されることで作品解釈が豊かになる一方で、それからはみ出る部分を注視することが重要になる。ところが、震災という事実のあまりの大きさに、はみ出ようとする部分もどんどん回収されていく。杉山の作品が阪神・淡路大震災の後の作品だったことは、ぼくの中では偶然だ。ぼくがここでそのような物語化に回収されないものとして発見できたのは、合成処理された画像の版画のようなマチエールであり、マケットの刺繍のようなフラジャイルな装飾だ。
 開き直ったように思われるだろうが、やはり美術作品は、表面だ。しかし、その成り立ちや背景、コンテクストを知れば、より深く味わうことができることが多いことは確かだろう。未だにその表面主義と内面主義の間で、揺らぎながら作品を見つめていく。そういうことを考えさせてくれた、魅力的な作品だった。

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黄金時代の茶道具-17世紀の唐物

4月4日

大阪市立東洋陶磁美術館(大阪市北区)

 全く詳しくない世界なのだが、茶道具を見ていると、落ち着くように思う。落ち着くというのが不正確なら、引き込まれて我を忘れそうになる。なるほど小宇宙といわれるわけだ。ブラックホールのようだ。
国宝「青磁鳳凰耳花生(銘 萬聲)」「油滴天目」といった南宋時代の名品をはじめ、様々に心引かれる茶器があり、自分の趣味嗜好を確認したり再発見したりできるし、控えめに言っても当時の美意識や価値観の変遷をたどることができる。
 そんな中で、意外に美しいと思ったのが、純金台子皆具(じゅんきんだいすかいぐ、徳川美術館蔵)だった。1639年(寛永16)、尾張徳川家2代光友の夫人千代姫の嫁入り道具で、釜は約3kg、風炉は約7kgの純金だという。今の感覚で言うと典型的な成金趣味なのだが、果たしてそうか。
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 有名な秀吉の黄金の茶室 (写真下)も、写真で展示されていたのだが、金というものについての「キンキラキン」なイメージとは違った、何か別の考えがあるように思う。まず鹿苑寺金閣を思い出すし、今は剥落しているといえ、多くの仏像はもともとは金地だったのだし、洛中洛外図屏風などの金雲はなぜ金色なのだろうか、等々。

 海外に目を転じても、宗教を問わず、聖人の光背、聖霊降臨の描写など、聖なるものの描写に金色はつきものだ。金色は光を表わすといわれるが、金が鉱物として稀少であり高価だからというだけでは説明がつきにくい、人類共通の金色信仰のようなものがあるのだろう。
Moa_2



 その上でだが、今ぼくたちが金色から感じているのは、蛍光灯や白熱灯の下で煌々と輝く金色のことで、既に人口に膾炙しまくっているのではあるが今さら谷崎潤一郎にお出ましいただけば、「……大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い遠い庭の明りの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返しているのを見たことはないか。その照り返しは、夕暮れの地平線のように、あたりの闇へ実に弱々しい金色の明りを投げているのであるが、私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はないと思う。」 と、そういう「沈痛さ」を、もし室町~戦国時代の人々が金色に見出していたのなら、秀吉をはじめとして、それは実のところ相当に目の肥えた、洗練された美意識の持ち主たちだったのではないだろうか。
 さらに、そうだとした時に、唐物趣味に代表される高級志向を、珠光 に始まる侘茶という考え方が「ひえかるる」を旨として否定したのは、なぜだったのか、本当のところ何を否定しようとしたのだろうか。
 ……というようなコンテクストで豪奢な唐物や黄金の茶器・茶室を捉えなおす必要性を感じさせるような展観である。背景には狩野派や琳派の人気といった事情もあるのかもしれないが、ややもすると「わび・さび」ばかりで語られがちな日本の美意識を見直す機運が、ここからも湧き起こっているようで、興味深い。

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