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2015年7月14日 (火)

「蘇る白鳥」

4月28日、29日

出演:若林絵美(28日)、奥野亜衣(29日)、関典子、白河直子
兵庫県立芸術文化センター(西宮市)
Photo


 サン・サーンスの「白鳥」(「動物の謝肉祭」から)を元にしたダンス作品を3点並べた異色の公演。アンナ・パブロワやマイヤ・プリセツカヤで有名な、フォーキン振付によるバレエ作品「瀕死の白鳥」(1907年初演)を、彼のメモや広義の舞踊譜に基づいて復元したものを神戸大学及び大学院在籍中の若手バレエダンサーが踊ったのが一点目。関典子による新作が二点目。そして三点目として、白河直子がH・アール・カオス版を披露した。

 バレエ版は、フォーキンのオリジナル振付をできるだけ忠実に再現したもので、兵庫県立芸術文化センター所蔵の薄井憲二バレエコレクションの資料を駆使して、同コレクションのキュレーターである関典子や学生が読み解いたもの。結果的に、今様々なダンサーで見ることのできるものとは、少し違った振付になっていて、興味深かった。フォーキンの資料は、たとえばラバンの舞踊譜などとは違って、写真と楽譜にメモを書き込んだもので、合理的といえば合理的だが、身体の外側からのアプローチであるように思える。モダンダンスの記録を目的としたラバノテーションに比べれば、バレエは形が決まっているので、これで十分なのかもしれない。端整な印象の残る若林、感情を表に出すタイプの奥野(写真・撮影:山下一夫。奥野のFacebookから)と、2羽の白鳥を観ることができ、興味深かった。
Swan_okuno


Swan_shirakawa
 白河によるH・アール・カオス版「瀕死の白鳥」(2010年初演)を初めて観たが、言葉もない。この場所は西宮の特設舞台であり、見ているのは踊る身体であるのだが、見えている、いやふれているのは精神性や霊性というべき何ものかであるという奇蹟のような時間である。静かさは切り裂かれるためにあり、切り裂く鋭さは静まるために提示される。動きは中から出てくるというよりも何かに吸い込まれた受動のようであり、踊り手の意思や振付家の意図など介在しない必然のようだ。白河が白鳥であろうとしたのだったら、その前に白河でなくなり、空白になっただろう。その空白、無を強く意識できる、息詰まる上演だった。(写真はウェブサイトdance+から。撮影=小椋善文http://danceplusmag.com/?p=14225

 関は新作として瀕死の白鳥であろうとした。かつてH・アール・カオスに在籍したこともある関は、どうしても白河と相通じる点があること、そしてH・アール・カオス版「瀕死の白鳥」と並ぶことを意識しただろうし、そう見られることを知っていただろう。おそらく、だから、白河とはいくぶん異なるテイストを出そうとして、少し動きすぎたのかもしれない。アクセントとしてあえて損な役回りを、引き受けたのかもしれない。しかし結果的にそれは、瀕死である白鳥の、静謐に向かう心性より、現世に留まりたいともがき足掻く姿や思いであるようだった。その意味で2羽の現代の白鳥はみごとな表裏をなし、美しさと厳しさにおいて、双璧をなした。

 この上演は、薄井コレクションのキュレーターである関が、コレクションとは「歴史的な過去ではなく、現在にも息づいている」、スタティックなものではなく、ダイナミックなものである(べきだ)という思いから実現に至ったものだ。このコレクションからは、たとえばバレエ・リュスのダイナミズムや、ロマンティックバレエの優雅さといった、身体、舞踊が時代を揺り動かした息吹が感じられるように思う。それは薄井氏自身がダンサーと研究者との複眼を持ち、また関も同じ複眼を持っているからこそ実現されるものだろう。芸術文化センターが博物館的な展示施設を常設することはもちろん望ましいが、コレクションが身体化され、動きを伴って現われることは、非常に悦ばしい。今回の企画展も規模としては小さなものであったかもしれないが、ダンス・パフォーマンスと合わせて見ることで、コレクションが立体化し、パフォーマンスに奥行きと広がりが生まれる、すばらしいものだった。今後の展開が楽しみだ。

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