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2015年7月13日 (月)

エイチエムピー・シアターカンパニー「桜姫-歌ヒ鳴ク雉ノ行方」

4月14日

原作:鶴屋南北『桜姫東文章』
作:くるみざわしん(光の領地)
演出:笠井友仁
出演:高安美帆、森田祐利栄、斧ようこ、
ナカメキョウコ、米沢千草、杉江美生、水谷有希、
原由恵、中村彩乃、澤田誠
ウイングフィールド(大阪市中央区)
Sakurahime


 歌舞伎の名作『桜姫東文章』を下敷きにした実験的なロングラン公演(14日~26日)の初日に観劇したわけだが、非常に完成度が高く、時間に螺旋するうねりのようなものが生まれているように思え、回を重ねたらどこまで濃密なものになるか楽しみに思われた。もう一度観ればよかった、せっかくロングラン公演だったのに、と後悔しきりである。
 舞台を大阪の島之内界隈、まさにウイングフィールドあたりに定め、四天王寺の高僧となった清玄と、長柄の橋を造営する際に人柱にされた男の娘である桜姫との物語とした、くるみざわの意欲作。
 くるみざわと言えば、神戸学院大学グリーンフェスティバルで観た『坊ちゃん』 では、漱石の古典を自由にいたぶり(笑)、原発問題にひっかけたりして作品の軸を揺り動かしていたが、今回は少なくとも一見のところ非常にオーソドックスでクラシカルな構築物としての作劇となったように思われた。
縦長のウイングフィールドを90度回転させて、横長幅広の舞台にしていたのが新鮮。こじつけではなく、左右に川が流れているような感覚になったのが、斬新だ。
舞台裏でよく使われる箱馬を自在に組み合わせてスクリーンとし、プロジェクターから映像を投射する舞台美術は非常に斬新に思われたし、シモ手のほうに語り手のような役割で口上(澤田誠)が控えていたりするのも、合わせて構造的な見栄えで、面白い。
たしかに、この芝居は、いくつかの構造が重ね合わさっているのを楽しむことができる。それは原作の「桜姫東文章」の構造でもあるだろうし、長柄橋人柱挿話を付け加えたことで生成された構造でもあるかもしれない。
桜姫の父親が人柱にさせられたのは、何も運命や犠牲心やといったドラマティックな物語によるものではない。「垂水(現吹田市垂水町)の長者・巌氏が「架橋を成功させるには人柱が必要。袴につぎの当たった者を人柱に」と役人に進言した。ところが自分の袴につぎがあり、巌氏は心ならずも自らの失言により、人柱になったと言う。この話はこれで終わりではなく、続きがあり、河内禁野の徳永氏に嫁いでいた巌氏の娘・照日は父の死を悲しみ、物言わぬ人となってしまった。」 と「大阪再発見」というウェブサイトに記載のとおりの、見ようによっては間抜けな話だ。しかし、この挿話を組み合わせることによって、桜姫が唖者であることと、父の「非業」の死という二つの聖性が与えられた。それによって、桜姫の天上性が増し、釣鐘権助や残月その他多くの者たちの俗性が際立ったのも、言うまでもない。
そしておそらくこの上演の肝となったのは、そのことによって、すべての人物に一種の浮遊性が与えられたことだろう。清玄の浮遊感、そして権助には跳躍する躍動感を帯びて舞台を縦横に跋扈した高安の二役は、無垢な頽廃と放恣な悪を極端な形で体現した。二役を往き来することで、両者の間の距離による速度が生成されたことが、すばらしい。舞台の上を駆けたとか歩き回ったとかではなく、彼(女)が現れるだけで観客の想像力が全速力で回転したということで、その喚起力は凄まじかった。
僧残月を女優(森田祐利栄)が演じるとは、意表を突かれた。声も挙措もいい役者なので、男を演じること自体特に驚きはないが、宝塚歌劇もそうであるように、女が演じる男と、女との濃密なラブシーンには、えもいわれぬ倒錯的なエロティシズムが立ち昇る一方で、無償性につながる純愛性が生まれてくる。残月と腰元長浦の関係は、もちろん純愛とはいえないかも知れないし、つぶさに描かれているわけでもないが、一事をきっかけに奈落まで行き着く二人の墜落の物語は、清玄と桜姫のサブストーリーと片付けるにはもったいないほどの激しさがあり、それを生ききった残月と長浦の濃密さには打たれた。
さて、桜姫の米沢には、舌を巻いた。前半は比較的静かな演技で、こんなものかと思っていたら、後半の渦を巻くように頽廃と倒錯の一途をたどる速度感が、凄まじい。あれよあれよと色気を増し、ファム・ファタルの無垢な官能性を身に帯びる。遊里に売られ戻ってきて、お姫言葉と女郎言葉がごちゃ混ぜになったセリフ回しなど、歌舞伎でも見せ場の一つだが、なかなかの迫力で、桜姫に二面性があることを気づかされる。白菊丸との男女二役ということもあり、演劇の中で存在していることの面白さが堪能できる存在となった。
3時間近い長編だが、全く長さを感じさせなかった。荒唐無稽な部分はある程度残しつつもずいぶん刈り込み、物語としての面白さを太い骨格として残していたのが、効果的だったのだろう。やはり演劇は(芝居は)、たとえ荒唐無稽であれ、筋の面白さがあると強いなと再認識させられたと言ってもいいかもしれない。なんだか少し悔しいような思いもあるが。
Sakurahime_butai


(舞台写真は、劇団のtwitterから。左から、残月の森田、清玄/釣鐘権助の高安、白菊丸/桜姫の米沢)

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