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2015年7月13日 (月)

突劇金魚「ゆうれいを踏んだ」

4月16日

作・演出:サリngロック
出演:片桐慎和子、山田まさゆき、有北雅彦、
大畑力也、殿村ゆたか、ののあざみ
S-pace(大阪市都島区)
Yureiwo


 設定は実に奇妙だ。買い物の途中にゆうれいを踏んだばっかりに、落語の「あたま山」 よろしく、頭のてっぺんから桜の樹が生えてきてしまった女性(片桐)の半生の物語。包帯でくくりつけているわけではないが、ほぼチラシの通り。
 話の筋について書き連ねることはしないが、桜の樹が生えるという異形の者となってしまったことが、意外に多くの人にさほどの違和感なく受け入れられている。そのすんなりをあっさり表現できて、観る者にフフッとほくそ笑ませるのが、片桐の魅力だろう。彼女は、演劇の中で起きる現実に対して、上半身を動かさずにあわあわと見送るのが特徴的だと思う。そのような態度は、もちろん作者のサリngロックのものでもあって、思い返せばかなりダークな現実がリアルに描かれていたはずなのに、遠い。それは一種の逃避的な姿勢・態度から生じる距離感かもしれないし、やりきれない面倒くささによるものなのかもしれないし、ただ現実をよく理解できていないだけのことかもしれない。いずれにせよ、確実に巻き込まれている。
しかしそのように思うのは、その出来事を一般的な出来事として解釈するからであって、実のところこの遠さは強さに他ならない。
 
本人同様、淡路島の親戚も、恋人も、変な劇団の座長も、彼女の頭の桜を特別視はしていない。座長は利用し、恋人は心配し、親戚の一人はうらやんだりやっかんだりする。祖母だけは嘆き悲しむが、それは異形の者になったからからというよりも、そのことで彼女が平凡な結婚を諦めざるを得ないからのようだ。 
 昨年9月の『漏れて100年』(アイホール)は、結果的には珍しく直接性が目立ったようだったし、ある出来事に反発し何事かを打ち立てていく劇のように思えた。その後の作品ということで何かテイストが変わっているのかと思っていたが、目に見えてその方向で変化したようには思えなかった。やはり何事かの到来を呆然と見送り、さして強い意識なく受け入れていく主人公であるように思えた。その強さが増していたかもしれない。
 受身でのっぺりしていながらしたたかな存在であるという印象を、片桐は実にうまく立ち昇らせる。片桐の姿が、サリngロックにこんな芝居を書かせているとも思えるぐらいに。そしておそらくサリngロックは、片桐の中に受身で呆然としているだけではない強い芯のようなものも見ているのだろう。
 ところで、『桜姫』では一部の、『ゆうれいを踏んだ』ではすべての役者が、顔を白塗りにしていた。非現実性とか彼岸らしさとか人間離れと言われるが、生きているのか死んでいるのかわからない曖昧な境界らしさがよく湧き出ていた。そう思って振り返れば、両作とも誰が「ゆうれい」でも不思議はない。特に『ゆうれいを踏んだ』では、みんなが血に足をつけず、地上5cmほどを浮遊しているような印象がある。世間的な常識では「当たり前」でないことを、ごく普通に受け入れ、そこから次の事態を発想するものだから、とても奇妙なことになる。夢の中の人々のようでもあるが、それが悪夢なのか吉夢なのかといわれたら、結果オーライと受け入れるべきなのかなとも思う。

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