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2015年7月13日 (月)

「アソシエイトアーティスト・ショーケース」

4月10日

 出演:岩渕貞太、キタモトマサヤ、多田淳之介、田中遊
アトリエ劇研(京都市左京区)

Aso_gekken


 今年度からアトリエ劇研でスタートした「アソシエイトアーティスト」という制度の紹介を兼ねて、その中から数人のアーティストによるショーケース公演を行ったもの。
 多田の東京デスロックのメンバーによる「CEREMONY(新ディレクター就任お祝い ver.)」は、役者同士、役者と観客が挨拶するという「挨拶の儀」に始まり、「劇場の儀」と題して、全国各地様々な劇場での役者の体験、思い出を語りその芝居の一節を再現するという劇場頌のような場面、そしていわゆる「劇場法」前文を夏目慎也が読むという、「儀式」であることを狙った作品。
 昨年、横浜、高知、福井で上演された「CEREMONY」を観ていないし、藤原央登の劇評 を読んだ程度で、きっちりと追いかけられているわけではないし、記憶では東京デスロックを神戸と京都で2作ほどしか観たことがないのだが、真意や底意といったものを汲み取りにくい作家だという印象がある。新ディレクター(あごうさとし)の就任を祝うということ自体、アイロニーでも嘘でもないだろうが、それを作品として公開することに、どんな意味があるのか考えてしまう。ましてや、劇場法を声に出して読むという行為が、劇場法を称賛しているのか揶揄しているのかニュートラルなのか、コンテクストなしにはわからない。つまり、観客の居心地をとても不安定にさせるわけで、それがねらいであれば、成功したといえるかもしれないが、何かありげな雰囲気を作って、結論は回避しているようで、愉快ではない。そのことについて、逃げを打ってもいるように見える。
 2009年に神戸アートビレッジセンターで上演された「演劇LOVE」については、簡単に書いたことがある。 「若い子たちがノリのいい音楽をきっかけに、何となく盛り上がって盛り上がって、いつの間にか熱狂になって、それがいつの間にかごく自然に殴り合いの惨劇になっている」、「そういう恐ろしさについて、何も語らない。」ことについての、やや懸念を指摘しているのだが、ダブルバインドをなるべくダブルバインドのまま躊躇なく放り出すという面白さがあるというべきか。このような一見の素直さが、変な形で利用されたり、過剰適応するようなことになったりしなければよいが。
 田中の「ルーパー1」は、iPad用の1人で声や色々な楽器をプレイしそれをオーバーダブしながら1曲を仕上げるというルーパー・アプリケーションを演劇に応用、1人でダイアローグができるような設定にした上での、一人芝居。大山崎インターの入り口が複雑で…という話から、謎の人物が現れる、ちょっとホラーっぽいお話。芝居の内容と同じぐらいに、その仕掛けに興味が分散してしまう。「スピーカーから「過去の音(記録)」がセリフにBGMに環境音になって 「今の舞台空間」に注ぎこまれ、男はそれを攪拌する」と解説されていて、そうには違いないのだが、仕掛けのわりには物語が素朴で、また仕掛けを操作する生々しい手つきのようなものが十分に徹底的に作品化(または非作品化)するための、まだ過程であるように思え、残念だった。
 キタモトマサヤ作・演出、遊劇体の「インプロで固めていった即席エンゲキ」(と、キタモトがブログで解説している)「蜜月フラグメント」は、強烈な原初的エネルギーを散乱させるような激しい、少し古風な香りのする作品。「連作戯曲〈ツダ・シリーズ〉から抜粋された台詞によって再構築される朗読劇」ということで、確かに断片めかしたメモのようなものを拾い上げては読むという動作が見られたが、その設定にもかかわらず、熱くためらいのない演劇化への強い意志が感じられ、たいそう面白かった。
 キタモトのブログには「遊劇体の〈核〉のようなものが、むき出しになったような出来ばえ(?)であると、私は感じました。本来、練り上げ、磨き上げて舞台にのせるものが、素材としてドンと在る、みたいな。〈エンゲキ〉に対する、ウチの思想もまた、丸ハダカのままです」というコメントがあったが、遊劇体がそのような丸ハダカらしさを持っていることがよくわかったように思う。それを実現するための言葉と、言葉を空間化、立体化する役者の存在感が、拮抗して寄り添ったり裏切りあったりしているんだろうと思う。
 岩渕貞太「斑(ふ)-ソロバージョン-」は、同題の昨年3月 に発表された「境界線をテーマに発表したトリオ作品の、ソロバージョン」だそうで、滑らかなのに流れ過ぎていくのではない、独特な時間を持っているダンサーであるように思われた。それはおそらく、身体が複層化しているからだろう。内面と外部というのではなくて、筋肉の一番外側と次の層とまた次の層…とかが違う流れ方をしているようなことになっているのだと思う。スムーズさの裏に隠れているので、漫然と見ていると気づかない感じだけれど、2つの時間を抱えている稀有なダンサーだと思われた。
 そして、この公演では、影を意識させた。3人の作品だったのがソロになったからかもしれないが、影というものはいったい他者であるのか違うのか、身体と影の間にはどれほどのスリリングな懸隔があるのだろうかと、そんなことも想像させられた。
 ところがぼくは、この作品で影が重要な機能を果たしているらしいことに気づくのが遅れ、最初の三分の一ぐらいだろうか、影に注意を払うことができていなかった。とても悔しい。
3人が出演した初演と、ソロのこの上演では、他者という存在についての意識がどのように変化したのだろうか。複数の他者という存在が不在へと転換したのか、そもそも他者は他者として存在していたのかとか、見なかった作品のことを悔しがりながら夢想する、そういう作品でもあった。

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