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2015年8月11日 (火)

京都国際現代芸術祭2015 PARASOPHIA

2015.5.1.

京都市美術館

 こういう芸術祭の見方は難しい。キュレーションの意図、他の芸術祭との比較、出展している芸術家のラインナップ等々、枠組みに気を取られて、作品を見たり考えたりすることが疎かになりがちだ。特に本展は、京都市内数ヶ所に会場を分散させ、しかも市美術館、京都芸術センター以外は、通常芸術空間として機能しているのではない場所での開催だったので、なおのこと場やしつらえ、枠組みに気を取られる。うっかりすると、相対的に作品の力が削がれかねない。それでなくとも、いちどきに多数の芸術家の世界に触れるというのは、相当の疲労を伴う。最近の美術系の芸術祭は、インタラクティブな作品、インスタレーション 、映像作品、サイトスペシフィック  な展示が増える傾向が顕著で、時間がかかる、働きかけなければならないので労力が大きくなる、視野を大きく拡げなければならない。……

 半ば冗談だが、本当のところ一般客は部屋から部屋へと様々な世界が広がるのを虚心に楽しめばよいのであって、それを妨げるものさえなければよいのかもしれない。それでもやはり、現代美術はどこに向かっているのかとか、本展のテーマは…と考えそうになる。多くの作品、作家、展示形態から、何らかの共通性を抽出するという作業は、非常に大きな労力を伴うし、短絡的に矮小化してしまう恐れもある。そもそもぼくはそういうシーンを語るようなことを好まないし、語ろうとすると文脈の中に個々の作品や美術家を押し込めることにもなりかねない。

Cai


 蔡國強の「京都ダ・ヴィンチ」(写真)は面白かった。「会場の中央に組み上げられた六角形七段の塔(パゴダ)を中心に、(中略)派生プロジェクト《子どもダ・ヴィンチ》で身の回りにある材料で子どもたちが自由に制作した作品がパゴダに飾られる」(http://www.parasophia.jp/ artists/cai_guo-qiang/ )という巨大なタワー。また、彼のコレクションから、農民発明家・呉玉録が身近な材料を使って自作した、ジャクソン・ポロックのようにドリッピングで絵を描くロボット、イブ・クラインのように裸の女性の人形を引きずり回すロボットは、見ていてただただ面白い。現代美術のビッグネームの行為を、パロディ化したのか純粋なオマージュかわからない、自作ではない工作物を展示するという意図自体、いくらでも深読みできるだろう。ここで蔡はパゴタを組み上げただけで、そこには子供たちの作品が飾られ、周囲では他者の作品が動き回り、その吹き抜けの会場の一角には小洒落た特設ミュジアムショップがある。つまりこの部屋は、祭りの場であって、その意味では芸術「祭」の中心であろうとしたのだろうし、蔡の本格的な作品を期待したらがっかりしたかもしれないが、子供も大人もずいぶん楽しんでいたようだし、その目的は十分達せられていたようだ。

 スタン・ダグラスの「ルアンダ=キンシャサ」は、延々と(6時間あって、ループ上映しているらしい)一画面でスタジオ演奏するミュジシャンたちの映像が流されている。何かそこに意味があるのだろうが、わからない。この作品に付き合うということはどういうことなのか。ループ上映したところで、一日の開館時間の中で一回半しか上映できない。何を映しているかはわかるし、演奏のクオリティは高くて音楽映像としては結構楽しめるのだが、そこで立ち止まり戸惑ってしまう。 

 ラグナル・キャルタンソンは、ザ・ナショナルというバンドが「Sorrow」(悲哀)という曲を105回も繰り返し演奏したのを収録した「たくさんの悲哀」という作品を展示したが、同じく6時間に及ぶこの作品は、その戸惑いをさらに深めることになる。

 それに比べれば、ハルーン・ファロッキの「トランスミッション」という映像は、わかりやすい。ワシントンのベトナム戦争戦没者慰霊碑など世界各地の聖地で、人々の身体の動きをクローズアップした映像で、祈りという行為を静かに注目させてくれる。

Ishibashi1


 石橋義正「憧れのボディ/bodhi」(上写真)は映像を使ったインスタレーション。観客は等身大のリアルな人形が設置された部屋で短編映像を見、移動し、また他の映像を見る。観客はその経験を統合しなければならない(しなくてもよいのだろうが)。ぼくはその映像に素我螺部の二人が出ているという大きな興味があって、わりとゆっくりと見たのだが、その映像のスピード感や予想通りキレキレのダンス、無茶な設定を楽しみながら、上の写真でわかるだろうか、画面と垂直に吊るされた半透明のスクリーンの意味、便器に座った女性の人形や鏡の意味、他の要素との関係等を考える。

 ブラント・ジュンソーの「Liebespaar (Lovers)」(写真下)は、どちらかというと求心性のない男女の石膏像が、大きな展示ケースの中に配置されたもので、そのケースは京都市美術館で、1933年に収蔵品を展示するために作られたものだという。ジュンソーは、そのケースからインスパイヤされて石膏像を作ったのだそうだ。展示ケースと いう枠組みから中に展示する作品が生み出されるというプロセスを楽しむという、複雑な作品だ。
Junceau


 笠原恵実子の「K1001K」(正しくは、最後のKが横向きに反転)は、まず美しいと思った。磁器の白、小さく壊れそうな白が多数並んでいる様を見下ろすのは、愛らしさと壮観を交互に味わうような面白みがあった。しかしこの小さな壊れた磁器の球体は、第二次世界大戦中に製造された陶製手榴弾の遺物からインスピレーションを得たものだという。それを知ると、作品の見方が揺れる。この揺れは、作品の表象の生成について深く考える機会を与えてくれる。

 眞島竜男「二つのコンテンポラリー」は、まさにレクチャーの記録、ポスター・セッションのようなダイアグラムの展示からなるもので、そのテーマになかなか興味があったものだから一通り読んだものの、それが美術作品を体験したかどうかについては、宙ぶらりんのまま、問い自体を投げかけられた格好だ。

 入り口すぐで、最初に出会ったのがジャン=リュック・ヴィルムートの「カフェ・リトル・ボーイ」というインスタレーションだった。広島で開催された「ヒロシマ・アート・ドキュメント2002」で発表され、のちにポンピドゥー・センターのコレクションとなったものだそうだ。原爆投下で大きな被害を受けた広島市立袋町小学校西校舎外壁に残された被爆者への伝言から着想された作品で、ここでも、来場者が自由に黒板にチョークで何かを書き残すことができるようになっていた。この展示スペースではボランティアの男性がこの作品の背景を説明してくれた。確かに説明されるに相応しい作品だ。では、なぜ他の展示室では解説が明確には為されていなかったのだろう。ボランティア の男性は自らの発意で、許可を得て解説を加えていると話しておられたが、やはり思いがあるのだろう。しかしそのことによって、この作品が極度にヒロシマであることになる。もちろん、そういう作品なのだろう。笠原の作品については、そのような解説は相応しくないだろう。
Vilmouth

 笠原作品が美術館の建築様式を意識したものであったように、他にも高嶺格の美術館の地下空間を使ったインスタレーション、通常は閉鎖されている北玄関でのヤン・ヴォーの展示など、美術館という展示の枠組みを意識した、ある意味でサイトスペシフィックな作品が多いのも印象的だった。ただそれは美術館という制度への問いかけというよりは、この美術館の姿に寄り添うものであるように思えた。

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