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2015年8月

2015年8月24日 (月)

サイトウマコトの世界 vol.4 うたかたのオペラ

平成27年度(第70回)文化庁芸術祭参加公演
サイトウマコトの世界vol.4「うたかたのオペラ」

20152


今回お送りする2つの作品は、どちらも1970〜80年代という感覚をかもし出すことを強く意識しています。
「うたかたのオペラ」は加藤和彦のベルリンを題材としたアルバム、「Tubular Bells」はマイク・オールドフィールドのプログレッシブ・ロックの名盤を基にして、それぞれの音楽を素直に受け止め、そこから動きを創造し、また音楽にはめて行くという作業を繰り返したものです。全体よりも部分を作り上げること、そこから全体をまとめて行くという方法で音楽と向き合っています。
また、関西のレベルの高いダンサー達によって、新作とはいえ作品の熱度が大きく高まることを期待しています。関西のコンテンポラリーダンス界において、長年活躍している男性舞踊家も2名参加しています。現在のコンテンポラリーダンスは実は長い歴史に支えられている事も、アピール出来たらと思っています。

演目/「うたかたのオペラ」「Tubular Bells」
日時/2015年 
   10月29日(木)19:00
   10月30日(金)15:00,19:00
   (開場は開演の30分前)
料金/一般 3500円 学生 3000円
   当日 4000円
場所/神戸アートビレッジセンター KAVCホール
   〒652-0811
   兵庫県神戸市兵庫区新開地5丁目3番14号
   TEL/078-512-5500
   FAX/078-512-5356
   阪急・神戸高速「新開地駅」8番出口より徒歩5分
   JR「神戸駅」ビエラ神戸口より徒歩10分
   神戸市営地下鉄「湊川公園駅」東改札口より徒歩15分

構成・演出・振付/サイトウマコト
出演/市村麻衣
   北原真紀
   斉藤綾子
   佐々木麻帆
   辻史織
   長尾奈美
   中谷仁美
   本多由佳里
   増田律夢
   宮崎安奈
   ザビエル守之助
   森恵寿

お問合せ/斉藤DANCE工房
     06-6858-5288 ms@pop01.odn.ne.jp
主催/斉藤DANCE工房
協力/ダンスの時間プロジェクト
チケット取扱/http://www.confetti-web.com/detail.php?tid=30635& (8/30~)Photo

 

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2015年8月17日 (月)

いでヤザキタケシ・ダンスワークショップ開催のお知らせ

あsPhoto

西宮市で、ヤザキタケシさんによるワークショップ開催のお知らせです。

アミティ・ダンス・ワークショップ
Contemporary dance workshop by Takeshi Yazaki

...

シニカル、コミカル & スタイリッシュに、日本を代表する
コンテンポラリーダンサー=
ヤザキタケシ による、
初心者/経験者対象の、
10回完結+劇場での発表公演
というWSを西宮で開催。

計10回:11月2日/9日/16日/23日/30日
12月7日/14日/21日
1月11日/18日
(発表公演は、1月29日(金)に西宮市フレンテホールで開催)

■ボディワーク・コース(初心者対象)  主に初心者を対象に、ストレッチ等から身体を意識し、独自の動きを発見する。
各日13:00~14:15 参加費: 8,000円(10回通し)
■クリエイション・コース(経験者対象) 経験者を対象に、オリジナルなアイデアと動きを構成して、作品としてまとめる。
各日15:00~16:30 参加費:12,000円(10回通し)

※ 両コース同時受講も可能です。いずれも年齢、性別を問いません。各コース15名程度まで

□会場 西宮市民会館503室(阪神西宮駅市役所口すぐ。0798-33-3111 〒662-0918西宮市六湛寺町10−11)

■お申込み・お問合せは、上念宛のメールでも、財団あてお電話・ファックスでも結構です。先着順ですので、お早めにお申込みください。

TEL:(0798)-33-3146
FAX:(0798)-33-3455

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さなぎダンス#7開催のお知らせ

ここで生れる広がり、つながりというものが、なんだかとても不思議な、貴重なもののように思えます。普通に暮らしていればなかなか出会わない人たちとこんな小さな空間で同じ空気を吸うこと。自身~自らの身~について何となく考えることになってしまう。障碍を持った身体と、そうでない身体を連続して観ることで、新たな気づきや驚きが生れたら、うれしいです。前回に続いて、劇団態変からはコントラストが鮮やかな男女デュエットの登場。鋭い動きの中に深みを感じさせる身体や、訥々とひたむきな動きから深みをみつめる眼ざし…三様の世界をご覧ください。

日時:2015/8/29 19:30, 8/30 13:30, 17:00 開場は30分前

出演:長尾奈美, drival effect,下村雅哉+上月陽平(劇団態変)

料金:前売2000円/当日2200円 障がい者及び介助者/25歳以下1500円
   ※定員各回30名です、お早めにご予約ください

会場:メタモルホール(JR東淀川駅東口徒歩3分)
   大阪市東淀川区西淡路1-15-15  Tel/Fax : 06-6320-0344
ご予約:劇団態変06-6320-0344 Email:taihen.japan@gmail.com

長尾奈美■幼少の頃よりジャズダンス・クラシックバレエを習い始めスタジオ踊劇舎にて伊藤佳子に師事。2004年、大阪芸術大学舞台芸術学科舞踊コース卒業、同大学院芸術制作研究科動態芸術研究分野動態表現Ⅱ(舞台)修了。大学時代にモダンダンスと出会い卒業後、今岡頌子氏・加藤きよ子氏・サイトウマコト氏に師事。現在、大阪芸術大学舞台芸術学科非常勤講師を務め、大学以外でも奈良・大阪で若手ダンサー達の舞踊指導を行い、自らもモダンダンス・コンテンポラリーダンスと踊りの幅を広げ独自の表現を考究し、ダンサー・振付家として国内外で活躍している。2013年には自主公演「心理新書1」を大阪倶楽部にて行う。■今回の公演では人の心の中に潜む鬼…をテーマに創作を進める…人は皆、鬼の顔を持っている…しかし普段は心の中に身を潜める…そんな鬼が表に現れた時あなたは…
 
Shimomura_kouduki

上月陽平■1999年『壺中一萬年祭』にエキストラとして出演。2005年『マハラバ伝説』シュトゥットガルト公演から劇団態変の役者として正式に参加。以来、劇団態変のほとんどの公演に出演し、『すがた現す者』『ファン・ウンド潜伏記』では主役を務める。2013年7月、劇団青い鳥の『さらば、クリーニング店 しろくま屋』に客演。身体から滲み出る独特のおかしみとダイナミックな演技が魅力的な、態変の中核を担うパフォーマー。さなぎダンスは#4に参加、今回二度目の出演となる。

drival effect■構成・演出:正木悠太□1990年生まれ。近畿大学にて碓井節子に師事。在学中より身体パフォーマンス団体淡水のメンバーとして活動を続ける。2013年同大学卒業後、自らのユニットDRIVAL EFFECTを立ち上げる。近年はソロ作品を作りながらダンサーとして関西のダンスの現場に参加中。■焦らず、じっくり体と対話したいと思っています。今回は二名のダンサーに出演を依頼しました。性別もそれぞれ違いますし、体格も好みの食べ物も違います。ゆえに体の持つ面白さも異なりますので、どう衝突させながら二つの体を舞台に載せるかがポイントかなと思っています。□出演:森本萌黄、KENT

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2015年8月11日 (火)

the nextage「見よ飛行機の高く飛べるを」

2015.5.30.

 作:永井愛、 演出:松本修
 出演:宮川陽香、小山彩花、
 前畠あかね、柳井果林、中嶋真由佳、駒川梓、平澤慧美、谷口レイラ、
 山下拓朗、清水風花、寺元七都子、岡崎叶大、岡田直人、中野青葉、
 中瀬良衣、生島璃空

independent theatre 1st(大阪・恵美須町)

Miyo_hikokino

 永井愛、1997年初演の名作、演出家は一流ということで、失敗が許されない公演だったと思うが、予想も期待をもはるかに上回る、すばらしい舞台だった。

 搦め手から行くと、衣裳がよかったのかもしれない(清水風花、中瀬良衣)。セーラー服のマリンブルーの襟、学年ごとに色の違うリボンがオフホワイトのワンピースに映えている。ワンピースについては、2007年シアタートラムのアントワーヌ・コーベ版にヒントを得たのかもしれない。そうしたことで、上体から下肢にかけて切れ目のない統一感があり、全身の流れるように動くラインが美しかった。清楚でありながら平凡ではなく、どこか大胆なスタイルであるように見えた。20歳前後の彼女たちの旗揚げ公演に、よく合っていたし、思い返せば、この劇に誠に相応しかったように思われる。従来の上演がほとんど袴姿であったことを思えば、ちょっとハイカラでミッションスクールっぽい雰囲気も持つこのラインは、斬新なものだったといえるだろう。

 チラシの用紙のざらついた薄さも絶妙。しっかりした手ざわりでありながら、フラジャイルな味わいが出ている。

 さて、フラジャイルfragileとは、壊れやすい、もろいという意味だそうで、「われもの注意」という意味で小荷物の段ボール箱に印刷してあったりする。ぼくは「あえか」という言葉を当てたいと思っているが、そう離れてはいないだろう。薄いガラスのコップを思ってみようか。向こうが透けて見えてそこに存在しないようだ。硬いが一瞬で粉々になる。光を反射し、自ら光っているようにも見える。叩けば楽器のようにいい音がする。涼やかだ。
 ……そんなフラジリティが、張り詰めた強さと共に、杉坂初江を演じた小山彩花に具わっていたのは、奇跡的な出会いといっても大げさではなく、内面から輝きを増す姿に、ぞくぞくするほどだった。

 たしか女学校を出ていったん小学校の教師をしていたのだったか、初江はこの女子師範学校で年齢的にも他の面でも少々浮いているようだ。新聞を読む。「青鞜」を読んでいるらしい。自然主義小説に興味があるようだ。理屈に振り回されて、他者との協調は二の次、不器用で実務は苦手。

 この劇は1911年の愛知県の女子師範学校を舞台にしている。タイトルは、前年12月、徳川好敏らが日本国内初の飛行に成功(諸説あるが)したという報を新聞で読んだ初江の、「飛行機が飛ぶ世の中になったのに、わが第二師範の生徒たちは教科書の勉強に明け暮れるばっかりですわ。飛ぶなんて、飛ぶなんてことが実現するんですもん。女子もまた飛ばなくっちゃならんのです」という発言によっている。彼女はその飛行機の姿を原動力に、生徒有志で「青鞜」の志を受ける雑誌を刊行しようと、まっすぐまっすぐ突き進む。

 そのまっすぐさが小山に現われると、かなり硬質なものになる。その硬く美しい直線性が、劇をぐいぐいと押していく。その渦に巻き込まれる多くの人たち。

 宮川陽香が演じた、開学以来と呼ばれるほどの優等生・光島延ぶはその最たるもの。宮川は、柔らかな笑顔で他者への影響力を持つタイプで、初江とは対照的な役を鮮やかに演じた。初江に引き込まれ同調する揺れ、国語教師・新庄(山下拓朗)からの告白を受け入れ初江から離れる心のプロセスが、もう少しはっきりと身体的に現われたら、さらに凄まじいものになっただろう。

Miyo01

 中島真由佳が恋に恋するノンシャランな存在である木暮婦美を演じた。錺職人で寄宿舎の賄い婦の息子である順吉(生島璃空)と、ややアクシデンタルな形ながらも関わってしまったために退学処分を受けるのだが、「はい、うっとりしておりました!」と高らかに軽やかに歌うようであったのは、その出来事の前と後との女としての存在のコントラストが、意思的な表現として滲み出ているようで、すばらしかった。頭でっかちで本の活字の中のことにしか生きていない初江に対して、ひょいと夢想と現実の垣根を飛び越えてしまった潔さが的確に現われていた。

 英語の先生、安達貞子を演じた清水風花にも感心した。落ち着いた風情でいながらも、イプセンを紹介するなど、自由な考え方を生徒たちに植え付け、新しい思想にひかれる新しい女を美しく造形した。しかし、婦美の退学に抗議して初江らがストライキを計画することになると、最初のうちは理解を示し応援するが、いよいよという時になって逆の立場に回る。その時の乱れぶりがいい。あぁ、人間はこうなるのか…というような幻滅や絶望や真実を、一手に引き受けてしまうような深みを湛えていた。

Miyo02

 新庄先生の影のありそうで思い詰めたような不器用な姿も、よく造形できていたといえるだろう。延ぶへの告白の真摯な姿、それをうける延ぶの表情共に、美しいシーンをつくりえていた。

 その他、校長(中野青葉)、舎監の菅沼先生(寺元七都子)、賄い婦(中瀬)等の年配者に至るまで、空気を乱すような違和感のある役者がいなかった。皆、ここに生きていた。ここまで学生たちがその時代を、状況を、現場を生きることができたのは、演出の松本修の、何か魔法があったのだろうか。
(舞台写真は、中島真由佳のFacebookから)

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宝塚歌劇団月組「1789-バスティーユの恋人たち-」

2015.5.24.

 原作:ドーヴ・アッティア、アルベール・コーエン
 潤色・演出/小池修一郎
 主演:龍真咲、愛希れいか
 宝塚大劇場(宝塚)

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 音楽のレベルの高さ、マリー・アントワネット(愛希)やロベスピエール(珠城りょう)、ポリニャック(憧花ゆりの)の造形をはじめ、すばらしいミュージカルであることに異論は ないのだが、いくつかの疑問点はある。

 主人公のロナン(龍)の恋人オランプ(サブタイトルにある「バスティーユの恋人」)は、娘役トップの愛希ではなく、早乙女わかばと海乃美月のWキャストで、農村出の青年を演じた龍とマリー・アントワネットを演じた愛希とはほとんど接点がないこと。悪いことではないが、宝塚では異例なことだ。早乙女も海乃も、全く悪くはなかったのだが、相手役が一般的な意味で小粒というか格下であったことで、反照として龍に大きさが感じられずに終わったのではないだろうか。

 演出面についても気づいたことがある。冒頭で時間の流れを先取りして、ロナンがバスティーユの壁を勇躍一人で登り、内側から閂を外して陥落させる快挙を成し遂げたという場面があるのだが、ここでは龍自身ロナンとして壁を登って喝采を浴びる。それが時間軸に沿って終盤に再度提示される際には、ロナンの姿はなく、他の登場人物は二階席あたりを見やるだけで、それは逆方向にロナンの姿を見つめているという演劇的設定なのだろうが、なぜそのような想像力の幻視にゆだねる方法をとったのだろうか。代役を立てる、映像を使う、カーテン等で後ろの城壁を隠すなど、様々な方法があっただろうに、あえて空間的混乱を招いた理由がわからない。その結果、最も盛り上がるべきシーンに主役がいない、ということになってしまった。

 また、続いてバスティーユを開放し、地下の弾薬庫を管理していたオランプの父親デュ・ピュジェ中尉(飛鳥裕)が現われ、王宮の軍隊に陥落の責任を追及されて撃たれそうになったところへ、ロナンが両者の間に走りこんで落命するのだが、主役の最期としてはバタバタとあっけなかった。

 要するに、ラストにかけて主役の見せ場になるべきところから最期のあっけなさが、この作品をよく表していたといえるのかもしれない。スケールの大きさを感じさせたのは、マリー・アントワネットであり、強烈な印象を与えたのは国王の弟シャルル・アルトワの美弥るりかや冷酷な将校ラザールの星条海斗である。

 では、ロナンの見どころはどこかというと、農民という下層階級の出身であり、当初は蜂起=革命の意味もよくわかっていなかった青年が、ロベスピエールやジャーナリストのカミーユ(凪七瑠海)との出会いによって革命の意義に目覚め、バスティーユ開放という重要な役割を果たすに至るという、成長物語においてのことである。オランプとの恋情においても、その成長過程は重要なファクターだ。ではそれは十分に描かれていただろうか。残念ながら、たとえば一点、ロナンが革命運動に対して、所詮本を読み大学に行っていたブルジョア諸氏のものであって自分たち貧しい農民のものではないという反発からいったん運動を離れ、また戻るに至る経緯の書き込みが浅いように思えた。ではどこを削ればいいのかと反論されたら困るが、潤色、演出の仕上げがやや荒いように思えて残念だ。

 龍は、歌声の伸びもみごとで、農民出身らしいチョコマカした姿から、革命の実行に向けて立ち上がる雄々しい姿まで、振れ幅の大きな役を好演したといえるだろう。粗衣をまとい、拷問を受ける(下写真。右は星条)など、宝塚のトップスターらしくない役ながら、気品を保ったのがすばらしい。愛希はマリー・アントワネットの無垢な高慢さ、 パリ移送後の家庭的な母親像を的確に演じ、宝塚のマリー・アントワネット像をまた一段大きくした。

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 「ベルサイユのばら」ではほとんど現われないネッケルを、重要な役として光月るうが好演。フランス革命の政治的な流れがよく理解できた。憎まれ役のポリニャックを憧花が王妃への真情あふれる存在として演じたことで、劇の襞が増した。競技場の場面でのボディクラップを使った斬新な群舞のスケール感、コーラスの力強さなど、組としての力もよく発揮。本当にすばらしい作品だったと思うので、もう少し丁寧に仕上げて改訂再演してほしい。
(舞台写真は日本経済新聞が運営するウェブサイト365日タカラヅカから)

1789-バスティーユの恋人たち- (DVD)

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価格:8,640円(税込、送料別)

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匿名劇壇「悪い癖」

2015.5.24.

 作・演出:福谷圭祐
  出演:福谷圭祐、佐々木誠、東千紗都、松原由希子、芝原里佳、
  石畑達哉、杉原公輔、吉本藍子
アイホール(伊丹)

Tokumei


 近畿大学文芸学部舞台芸術専攻を卒業したメンバーを中心に立ち上げ、結成2年後には應典院舞台芸術祭「space×drama2013」優秀劇団に選出されるなど、関西若手劇団の注目株として話題を集めているらしい。機会がなくて、卒業公演以来福谷の作品に接していなかったし、学生時代をよく知っているメンバーが多いので、隔世の感がある。この月は、新入生歓迎公演を含め、近畿大学の学生や卒業生を見ることが多かったのだが、いずれも充実した舞台だったなぁと、感慨ひとしおである。

 とにかく、面白かった。複雑だし人間関係はうっとうしいし、舞台上に妄想という名の複数の空間や時間が混在するし、わかりにくい劇中劇で登場人物が別の人物を演じているらしいし、一筋縄ではいかない。面倒くさい。

 冒頭の柳瀬真由(松原由希子)が、ガスが止められているからカップ麺を水で食べるというシーンから、これメチャクチャあかん人が出てくる芝居なんや、と思う。ただ貧しいとかお金がないというんじゃなくて、吹っ切れてしまっているように見える人。ちょっとありえないような彼女の行為に、ドン引きしながらも、なぜか強いシンパシーを感じてしまう。それが演技であり演出なのだろう。その後の選挙の話でも、イラつくのを通り越して、あきれるが、きっとこういうのもいるのだろうと思わせられてしまっている。と言うと、鎌野啓太(福谷圭祐)に「いねぇよ!」と言われそうでもある。まずこの第一場で、二人のありえないリアリティに引き込まれ、二人が「このやろう!」とでも言うべき時に「愛してるぜ」と呟くことに呆気に取られる。

 それが次に切れ目なく、舞台のシモ手からカミ手に移ってカラオケボックスになり、すぐに柿崎優馬(杉原公輔)が台本か何かを書いている場面になり、元のアパートに戻る。アパートでの二人の会話は、なかなか切ない。

 基本的には柳瀬と鎌野のやり取りを中心にして、そこから過去やアナザーワールドや妄想に飛び移っていくのを追いかけたり取り残されたりするという経験。ぼくはまだ人物一人ひとりの顔がわかるからまだましだろうが、なかなかついていくのが難しいだろう。でも、それが不愉快ではないだろう。

 おそらく、福谷が描き、彼らが演じるしょうがなさ、脈絡のない断片性、突発的な昂揚といったありえなく見えるディテールが、実は強いリアリティを持っているのだろう。ぼくたちの日常は当然断片化しているし、心ここにあらざる時間もあるし、過去への追憶に浸っている時間もある。その統合体として「私」がある。そのこと自体は陳腐なことだが、それを的確に表現するのは難しい。なぜ福谷たちはこの劇でそれができたのだろう。

 たとえば、「人間の二重性という混乱に対する、全面的な信頼」と言ってみる。具体的には、柳瀬真由の現実世界と、別人にすり替わっている妄想の世界をパラレルに提示することで、彼女の分裂した全体性をいとおしむ。彼女のしょうがなさと同時に、妙に潔癖な倫理観(冒頭のシーンでいえば、だからといってコンビニでお湯だけもらうなんてことはできない)を提示することで、一層メチャクチャの度もいとおしさも増しつつ、しかしそれを妄想のノーマルで幸福な世界では、彼女が依井佳奈(東千紗都)という別人格になることで、いとおしさを深めないところが、心憎い。実際のところは、松原も東も非常にチャーミングな役者なので、相乗効果的に深くいとおしむのだけれど、それはまたそれで絶妙なところだ。

 ずるいとも思うのだが、謎やわかりにくさを仕込んでおくことで、観る者の心に深く長く残る作品になっている。混乱の中でも、個々の役者のキャラクターが立っているのもすばらしい。観た者の多くがtwitterなどで、「意味わからん(褒め言葉)」と呟いているのが、これもまたすばらしいと思う。頼もしい。

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Malus pumila企画「confeito」

2015.5.23.

近畿大学舞台芸術専攻 新入生歓迎舞踊公演

 出演:大野真里奈、衛藤桃子、河本彩希、玉田かおり
  貫井貴美香、福嶋理奈、的場風佳、山本真衣
 振付・演出:余根田三奈

近畿大学D館3階ホール

Cefouh2ueaedoud

 コンペイトウをモチーフにしたのは、うまいと思った。甘くてかわいくて、いろんな色があって、ちょっとずつ形が違っていて、イガイガしている。逆に、そんなニュアンスをどこまで持たせられるのか、楽しみな公演となる。作者が一人の長編、出演者は女子だけという、近畿大学ではちょっと珍しい公演だ。

 ぼくが観たのは3回目の公演だったが、始まってしばらく、ダンサーの顔の表情が中途半端で、舞台の上で居 心地悪そうにしているように思えた。それは板についていないというより、20歳前後の女子の、世界での居心地の悪さを体現していたのかもしれない。

 なんとなく中心的存在かなと思われたのが河本彩希だが、コンペイトウの入った瓶を頭に乗せ、中央に立って手に取って瓶を振って音をさせ、開ける。周りを7人に丸く囲まれていて、一粒つまんで高く上げ、食べると、いい表情で笑う。ニヤリともニコリとも違う、大げさに言えば禁断の果実、普通にいえばつまみ食い…ならではの美味を味わってしまったような、裏のある微笑み。顔が小さく腕が長く、上手さを上手さとして感じさせない、無垢な魅力をよく生かしている。

 7人が倒れると、続いて糸電話を使って口々に愚痴や文句を大声で喋り始めるのだが、ここまでのちょっと澄ましたガーリーな雰囲気から一転して、発せられる言葉を品なく感じてしまう。微妙なトーンのことなので、人によって感じようも違うとは思うのだが、その落差は作品の統一感を悪く崩すもののように思えた。大阪弁だからというのではない。声にフィルターがかかっておらず、生々しさが露わだったとでも言おうか。ダンスする身体であった者と一人称で発語する者を連続的に同定することができず、それが意図された不調和であったようには思えなかったということだ。声、言葉を使う必要があったのかどうか、わからない。

Confeito

 続いては、宙に指で文字を書くシーンに続き、大野真里奈が鋭く走りこんで格闘し始め、またすぐに型から大きく動く滑らかなソロに移る。小さな身体がダイナミックで、鋭角のドラマを感じさせる。

 その背景で河本が靴を履こうとして履けずに転んでいる。靴を履くということが、何かの変化の契機であるとするなら、うまくいかず自分を持て余してしまっているのか、変化したくないのか、その入り口で足踏みしているような情景だ。その後、スカートを脱いでペチコート姿になって、床に絵のような何ものかを描きながらフェイドアウトしていく。女子が経過する成長という美しくも曖昧な時間を描こうとして、懸命だったことがよくわかったように思う。
(舞台写真は、同専攻教員の矢内原美邦のブログから)

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「南画に描かれた四時の楽しみ」

2015.5.20.

頴川美術館(西宮)

Nanga


 中国文化への憧憬を基に、江戸中期以降に隆盛した南画は、文人画とも呼ばれ、都市郷村の文化度の高い人士に広く受け入れられ、大阪では商人をはじめとした町人に伝えられ、盛んになったという。

 季節を楽しみふんわりとした筆致で風景の雄大さと精神のおおらかさを対照させたり、画に賛を添えて友人との交誼の証としたりして、文化度の高い生活のありさまを想像させるような名品。

 そもそも南画は、中国で宮廷画家がたずさわった北宗画に対して、在野の文人画家が取り上げた山水画様式である南宗画(なんしゅうが)に発したものだそうで、官にはない民の柔らかくどこかほのぼのとした雰囲気が好ましい。本展では池大雅、頼山陽、渡辺崋山、椿椿山といった大家の作品が複数展示され、小ぢんまりとした中にもおおらかな展観だった。

 無知をひけらかすようで恥ずかしいが、「四時」とは何かわからず、午後四時の夕方の光の感覚なのか(それはないな)、それとも四季のことなのか、おそらく後者だろうなとは思いつつ、解説がない。常識だといわれればそうなのだろうし、その常識を持っている人しか見に来ないような施設ではあろうが、全体的にもう少し詳しい説明がほしい。「四時」には、「1.1年の四つの季節、春夏秋冬の総称。四季。2.1か月中の四つの時。晦(かい)・朔(さく)・弦・望。3.一日中の4回の座禅の時。黄昏(こうこん)(午後8時)・後夜(ごや)(午前4時)・早晨(そうじん)(午前10時)・?時(ほじ)(午後4時)。」という程度の意味の広がりがあるそうなので(コトバンクより)、「四季」の意味ではあるのだろうが。

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宝塚歌劇団雪組「アル・カポネ~スカーフェイスに秘められた真実」

2015.5.17.

 作・演出:原田 諒
 主演:望海風斗
梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ(大阪・梅田)

Alcapone


 アメリカのギャング、暗黒街の帝王、スカーフェイス(向こう傷のある顔)のアル・カポネを、雪組男役二番手格の望海風斗(のぞみ・ふうと)が、顔に傷をつけて演じるということで、望海の暗く激しい面を堪能できることと、大きな期待があった。望海はまず歌がうまい。深い声をベースに、ナチュラルなヴィブラートから意識的な絞り方まで、声のコントロールを駆使して、歌で的確にニュアンスを表現できる。

 今回それ以上に驚いたのが、顔の表情の複雑さだ。歌い終わったりセリフを言い終わったりした後に、たとえばニヤリと底意地悪そうに笑いながら、直後にさびしそうな翳りを見せるというような表情の変化を、ほんの数瞬のうちに見せることができる。最初それに気づいたときには、本当に驚いた。

 宝塚歌劇団の生徒  は、一定の技術は持っているのだが、それに独自の味わいや癖を加えることが乏しい。個々が独特の癖を存分に発揮しては、群舞やコーラスで揃わないから、極力お手本どおり、譜面どおりの、ある場合には味気ないフレージングに収まりきってしまう。

 ソロでふんだんに見せ場を与えられる立場まで上らないと、なかなか独特の癖や味を発揮することはできないが、望海もそのような位置に来たのだということ、だからといって皆が魅力的な味を出せるわけではない。ただ演技や歌がうまく、器用なだけの生徒ではなく、微妙な翳りや愛らしさを匂い立たせることができる、一流の男役になっていたことに、驚いたのだ。

 巨大な酒樽を組み合わせた、松井るみの舞台装置に、開演前から目を引かれた。樽が回転して部屋になったり、ほのかに木の香りが漂ってきたり、作品の空気をうまく作った。

 暗黒街の帝王を、少年時代から描き、収監された晩年になって、訪ねてきたシナリオライターに、書き換えろとは言わないが、お前にだけは真実の姿を知っておいてほしい、と言って過去にさかのぼるという設定。いざ時代をさかのぼってしまうとほとんど忘れてしまう枠組みだが、底流には淡い哀切が流れることになる、うまい設定だ。

 妻となるメアリーは、不幸な境遇のアイルランド系。大湖せしるが頑なな表情、夫を気遣う甘やかな姿態と、張り詰めた美しさの中に様々な揺れを見せ、存分に魅力を発揮した。アル・カポネを追い込む連邦捜査官エリオットという重要な役を演じたのが、若手の月城かなと。新人公演でも実力の確かさ以上に、スケールの大きな魅力を振りまいている。設定上、終盤しか出番がないのはやむをえないが、学生時代にアル・カポネと出会っていたというエピソードは、やや無理のある段取りだったように思う。むしろ、捜査の過程でアル・カポネを追い詰めていく姿を深く描いたほうが、ドラマとしても月城の魅力を発揮するためにも、よかったのではないだろうか。

 この作品は、第23回読売演劇大賞の作品賞・上半期ベスト5に選ばれ、評価も高かった。ストーリー自体は、Wikipediaに載っているエピソードに肉付けをした程度で、新味があるわけではないだろう。ひとえに、望海の歌の迫力と演技の襞の深さを引き出すことのできた手腕といえるだろう。演出の原田は、これまでシャンソン歌手のシャルル・トレネ、バレエ・リュスのニジンスキー、写真家のロバート・キャパ、スウェーデン国宝グスタフ3世と、歴史上の人物を題材にした佳作を送り出してきた。どの作品でも、主演男役の魅力を存分に発揮させている。宝塚は史実に基づいた名作を多数生み出してきた。一般的には必ずしも有名でない人物に、強度のあるドラマと、麗しい美意識を盛り込んで、観客にその存在を深く刻み込む作品たちだといえよう。次の人選が楽しみだ。

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游ぐたらこマッチョ「ビックテープ」

2015.5.8.

近畿大学文芸学部舞台芸術専攻 新入生歓迎公演

 作:田中ひかり、 演出:游ぐたらこマッチョ
 出演:安部ひかり、田中ひかり、平松七海、吉本尚加

近畿大学EキャンパスD館 演劇実習室

Bictape


 育ての親である恩師の元を離れ、旅するボッチが何ごとか~おそらくは本当の愛とか~を発見するシンプルな物語。未来の宇宙時代の設定としながらも、しっかりと人間のあたたかさや愛の強さを受け取ることができ、終盤では愛を送る人の自己犠牲に犠牲になった娘の哀切も描かれて、素材としてなかなかよくできた作品だったと思う。そのようなヒューマンなストーリーが、閉じられた空間で展開するのではなく、スケールの大きな旅の形で進んでいくのが、軽快でよかった。

 演技については、クレジットを見て想像できるように、特定の演出家を一人置くのではなく、メンバーの共同作業として行なわれたようで、個々の演劇的体験に基づくそれぞれのノウハウを持ち寄る形になったのではないか。同学年でもあり、誰か一人が突出して指導的立場であることも難しかっただろう。そのために、舞台全体にピンと張り詰めるような同質のトーンを感じられない部分もあり、惜しかった。といっても、ボッチの吉本の全身を投げ出すような好演、娘を演じる時の田中の哀切など、個々のうまさは実感することができ、楽しみに思える。

 今後もし、このような形での創作を続けるのなら、劇団青い鳥のような道を歩むことになるのだろうが、主体的かつ意識的な共同演出という方法論を追求、確立する必要がある。相互的な複数の他者性を演劇に持ち込んだときに、劇空間の関係の中でどこに着地点を見出すか、面白い実験になることだろう。

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努力クラブ「彼女じゃない人に起こしてもらう」

2015.5.7.

作・演出:合田団地
 出演:大石英史、川北唯(オセロット企画)、
 キタノ万里(dracom)、木下圭子、九鬼そねみ、佐々木峻一、
 ピンク地底人5号(ピンク地底人)、森田深志、三田村啓示(空の驛舎)、
 山本麻貴、横山清正(月面クロワッサン)
シアトリカル應典院(大阪・日本橋)

Doryoku

 一言で説明すると、「うち、死のうと思ってんねん、君も一緒に死んでくれへんかなぁ?」という女(川北)のセリフがすべて。川北となら死んでもいいかな、と思わせながら進むお芝居(笑)。

 個人的にとても思い入れの強い場所、設定だったので、あまり客観的には語れないかもしれない。場所はおそらく能登金剛のヤセの断崖とかそのあたりだろう。自殺の名所というか、松本清張『ゼロの焦点』でヒロインが身を投げて有名になったそうだ。40年ほど前にぼくの実兄がここで消息を絶った。そういうところで引き込まれてしまう。いくつかの違和感を別にして深い感銘を受けて劇場を出た。

 舞台のボリュームコントロールができていないというか、わざと乱しているのか、どうにもやりきれない統一感のなさについては、ぼくも違和感を持った。それを致命的と思う人もいるだろうが、その破調を主役コンビ以外の登場人物に片寄せした極端さを汲み取りたい。ただ、意識しておきたいのだが、主役以外の人物は、皆ふつうなのだ。なのに、不愉快だ。ふつうさが強調されて極端になっていると言えなくもないが、ふつうは強調してもふつうなので、それがタガが外れているように見えるのは、逆の側の二人が極端だからだ。
しかし、なぜ合田は、「さしたる理由もなく死のうとしている魅力的な女性の気まぐれに、男(森田)が巻き込まれていく」というメインストーリーに、駅前食堂のうるさいふつうのおばさんたちや、夕陽の美しい断崖でバカ騒ぎするふつうの青年たちを、全くフィルターをかけずに劇のバランスを乱すほどの音量で提示したのだろうか。

 当然の実感として書くのだが、死に向かおうとする二人に、死に向かっていない他人の話し声やしぐさが無神経に大きく騒々しく聞こえたり、全く耳に入らなかったりするのは、当然のことだろう。それを合田はわかっており、当たり前に描きつつ、特に説明はしなかった。だから、劇の空間としてはバランスを欠いた。主観的な音空間を再現したからではないか。

 女が死に向かうことの理由がわからないとも言われるだろう。それは、わからないだろう。わかっていれば、こんな形で死に向かったりしない。たとえば、絶景として有名な断崖からの夕陽を二人で見ているシーン。まわりにはダブルデートのカップル、うるさい男子二人連れ、悲劇の熟年男女といったふつうの人々が、どうでもいいバランスの悪いテンションで小芝居をするし、男はひたすら眠い。女は夕陽を見入って、言葉をなくし、涙を流している。あまりのアンバランスに絶句する。この対比を提示することで、コントラストとして女の何か~孤独とか絶望とか~が見えてきただろうか?

Kanojojanai

 女の死ぬ理由が最後までわからないように、孤独や絶望や、本音や本質も見えてこない。そんなもの、あるのだろうか。演劇にタラレバはないが、もし最後、夜が明けて二人がどうするかという場面まで描かなければいけなかったら、この二人は死ぬのか死なないのか。そこまで描かなかったのは、もちろん観客に委ねるという余韻やいい意味での曖昧さを残したのだろうが、結論として用意されるような現実性のなさ、希薄さが、最後に駅の周りを歩き回るあたりから立ち昇ってきて、二人の生き死になど、どうでもよくなってくる。ぼくがこの劇から受け取ったのは、そんな曖昧な結論のなさ、結論としてこの関係を定着してしまわないことを選びたい気持ちで、極端にいえば、世界に明日の朝は来ないまま、この二人は宙ぶらりんになっていてほしい、というような気持ち。この時間が、いつまでも続いて終わらなければいいという気持ち。中途半端さを抱え続けていたいなという気持ち。
これは川北への当て書きだろうと思われる。彼氏とは一緒に死んでくれなさそうだと別れ、特に好きでもないバイト先の後輩を海に誘う。わがままというか、コミュ障とかメンヘラとかいわれるんだろうなと思いつつ、病的な印象はあまりない。それは川北の独特な半透明感から来ているのではないだろうか。はまり役だった。
 (舞台写真=小嶋謙介。「スペドラ 感想ブログ」から。 )

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土田ヒロミ写真展「砂を数える」

2015.5.5.

フォトギャラリーTANTO TEMPO(神戸・元町)

Tsuchida


 通りすがりにまさかこんな歴史的な作品に出会えるとは思っていなかった。1976年から1989年にわたって群衆を撮り続けた土田の代表作といっていい作品群。群衆を砂と呼びながら、それを「数える」とするところが写真家の眼ざしの微細さを感じさせる。同名の作品集の中から、特に人数の多い作品を集めた展示だったようだ。街角、プール、何かの祭典の会場などなど、多くの人が雑踏となって、群れとなって集まる場所で、広角に隅々まで焦点が合っているように撮られた写真。一人ひとりの顔がわかる。しかし、ちょっと目を離してもう一度探そうとすると少し時間がかかりそうな、それほどの大人数だ。

 一人のポートレイトではなく、群衆を写すことで個を掬おうという、逆説的な営為だと思われる。そうでありながら、砂であって、岩でも土塊でもない。個であるためには、砂粒は小さすぎるかもしれない。しかし、「一」ではある。個が不安定に揺れる大都市という空間の、祝祭的な空間や時間を正面から切り取った作品だ。

 一方で土田は1986年から毎日セルフポートレイトを写しているという。Agingの記録であると同時に、存在証明であり、輪郭を日々確認することになる。

 土田は1939年、福井県生まれ。学生時代からカメラ雑誌に入選したり個展を開いたりしていた。「砂を数える」と並行して撮っていたのが「ヒロシマ」。『原爆の子』という被曝体験を綴った作文集の筆者を被曝30年後に追った写真集だ。一人の姿と一人の作文の背後に、時間と言葉と死者が存在する。

 「砂を数える」も、群衆の中に個があり、それぞれの背後に膨大な物語があるだろうが、群衆となったここではそれらは削除されている。その削除されたものを写し取るには、どうすればいいのか。それを問い続けた作品群、写真家であるように思われた。

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gallerism in 天満橋

2015.5.4.

京阪シティモール(大阪・天満橋)
 関西の複数の画廊が、おすすめのアーティストを出展するもので、そもそも1983年に中之島の大阪府立現代美術センターで「大阪現代アートフェアー」としてスタート、1993年に「画廊の視点」と発展的に改称、2004年には「gallerism」と改称して2011年11月まで大阪府立現代美術センターで実施(途中で谷町4丁目の府庁そばに移転)、2012年3月の同センターの閉鎖後は府立江之子島文化芸術創造センターには移らず、2013年から京阪シティモールに会場を変えて開催している。紆余曲折の歩みである。

 結果として、府立の施設から民間の商業施設に移ったことは、画期的なことと言えるだろう。作品やグッズの販売が可能になっていることが大きい。画廊が主催しているのだから、販売ができることは当然だし、現代美術の享受を考える時に、鑑賞-購入というプロセスは不可欠のものだ。風通しがいいし、全く現代美術に興味のない人の目に触れる可能性が高まる。

 印象に残った作家は、原千草、東清亜紀、梅澤豊といったところ。特に原千草は、淡さの中に強さのある色調が魅力的で、今回出品されていた小さな立体も、サイトスペシフィックなコンセプトもあり、空間とよくなじんで愛らしかった。「くじらのいちぶ」というコラージュ作品によるコンセプトワークが紹介されていたが、小さなコラージュ作品を創り続けていって、千も二千にも一万にもなって、いつか作品をもう一度回収して大きな「鯨」として展示できたらいいなという、壮大かつ愛らしいものだ。断片であるのではなく、集合体を前提として意識しているようで、興味深い。http://whalepart.tumblr.com/

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 東清の「ムニ」ちゃんと名づけられた個性の強い人形は、その大きさで空間の中の存在感が大きく、グロテスクなかわいさに、否応なく目が留まる。ワークショップも開催されていたようなので、パフォーマンスもあったのかもしれないが、ムニちゃんを頭からかぶって難波の街に繰り出したり、住之江区の行事に出たりと、思い切ったこともやっているようだ。「ムニ」とは唯一無二から。キャラクターではない、個別性をもった存在であることを強調しているらしい。

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 梅澤豊は鉛による立体と、映像を組み合わせて、耽美的な印象が残る作品を見せた。次頁写真は「夢想花」という作品で、アニメーションは河野亜季。鉛で精妙に造形されたチューリップが作る花輪の中に、カルデラ湖を思わせるような深い青が湛えられ、そこにチューリップがゆっくりと開花する映像が流れる。時間と空間の広がりと深み、流れと静止が感じられ、長い間見入っていた。

Umezawamigi


 アトリエ創佳舎、ユウの家と、障がい者施設からのエントリーがあり、いわゆる健常者の作品と同じ地平で見ることができたのが面白い。先入観なく見て、魅力的な作品が多く、現代美術がボーダーレスであることも再認識できる。「障がい者アート」というような区分を軽やかに超えてしまうようで、今後の展開が楽しみだ。

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関西学生舞踊連盟「CONNECTION」

2015.5.3.

兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール(西宮)

2015051


 関西で主に部活動としてダンスに関わっている大学生たちの発表会で、いくぶんかは夏の全日本高校大学ダンスフェスティバル(通称:オールジャパン、神戸文化ホールで開催)に向けた試演会の意味もあるだろう。

 意地悪く見れば、どうしてもオールジャパンで入賞しそうな傾向の作品になる。作品の多くがその傾向に収斂することになり、多様性と逆の方向に進んでしまいがちである。今年は特にその傾向が強かったように思われた。

 それを、これまでオールジャパンが多様性を許容しようとしなかった結果だと言ってしまうのは、本質を見誤る恐れがあるように思う。状況論めいてかえってつまらない考察になりそうだが、ひとつは、大学でのダンス教育とはどうありうるのかという問題、ひとつは、ダンスを審査するとはどういうことかという問題、さらには現在のダンスの状況を無視して考えることは難しい。

 体育系、教育系の大学が多いことからも、運動能力の高さは一定レベルで保証されている団体が多い。よく動く身体は前提とされており、コンクールの審査においては事実上の足切りポイントとなっている。それはやむをえないだろう。ヘタウマ的な表現スタイルは、どうしたってアカデミズムの外側から生まれてくるものだから。

 学生たちが何らかの意味で世界を、完成度の高いものとして完結させようとしていることはわかる。しかし、一般的にそのような志向は、お勉強の成果をまとめたものになりがちで、作品のスケールの大きさと相容れないものとなるだろう。破綻や不整合を恐れると、制作の後半は彌縫に終始し、ますます作品を小さくする方向に向かいかねない。

 そんなことを思いながら、大阪体育大学、関西大学の作品はなかなか面白かったなと思い出す。特に大阪体育大学は、笑いという形で破綻や不整合を解消(時に放置)しようとする手つきが、親しみやすさとスケール感を生み出すのがいい。

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池田扶美代×山田うん「amness」

2015.5.3.

ArtTheater dB神戸(神戸・新長田)

 ROSAS  の創設以来のメンバーである池田  と、Co.山田うんを主宰して縦横無尽の活躍をしている山田 のデュオ作品の再演。日本とベルギーで、1日1語の交換メールを重ね、ブリュッセルで共同制作を行い、2013年オーストリアで初演、横浜、ベルギー、ルクセンブルクで再演を重ね、待望の関西公演となったもの。

 バッハの「パッサカリアとフーガ」をサクソフォンの五重奏に編曲したものが使われていて、当然ながら二人のダンスも対位法的に展開するのだろうと思われるものだ。

 たとえば、音は大きく変化するのにダンサーは動かず無関係にいて、照明(Hans Meijer)の光は曖昧に大きくなったり小さくなったりしている。そういう時、そのバラバラさが、遠心力を極度まで大きく振り切るために、根っこのところで結束するための強さがどれだけ必要かということを思う。

 想像するに、それは身体がダンスする器官になるための契機をどのように共有しているかということではないだろうか。「1日1語の交換メール」というのは、言葉から発したといっても、もちろんナラティブ(物語的)なものではなかった。たとえば「「question」「行間」、「お経」「息継ぎ」、「バタフライ」「出来ない事」、「かもしれない」「コーヒー」、「腰」「モーション」、といった形で単語の連鎖が続いていきます」というようなものだったそうで 、俳諧でいう付合のような、お互いの想像力を研ぎ澄ましながらも楽しい時空の広がりだったのではないだろうか。池田自身、そのあたりを「単語そのものよりも、その間に生まれてくるもののほうが大切です。例えば「かばん」の反対側に「机」という単語がきたとき。大切なのは単語の意味ではなくて、その2つの単語がなぜコネクトされたのか、どういう発想でそれが繋がったのかということ」だと述べている。語と語との隙間に流れる想念や情感こそを重んじるという態度は、「間」を思っているようであって、実は相手がなぜそれを出してきたのか、相手の心を思い、相手の心になることから生まれていると思われる。コンタクトということの(われわれにとっての)本質が、ここにあるのかもしれない。

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 ダンスの強さは、このようにして、自身の中に相手を巻き込み住まわせることで生まれてくるのではないか。

 日常的だったりへんてこりんだったりの不思議な振りや、不安定な照明のせいで、何かであるということを固定しにくい作品だと思った。比喩になりにくい動き、言葉にしにくい動きの連なりで、動きを見るという受容の体験が言葉でない直接的な塊として入り込んでくる。それでも随所で山田、池田の動きが断片のきらめきのように美しく、しかしそれは瞬時に異なるトーンへと移ってしまう。

 ぼくたちがこの作品の時間にいるということは、追いかけ続けることだったように思う。もどかしくはあるが、共に動いている時間を持てたようで、疲労が心地よい。

写真:Hirohisa Koike

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花柄パンツ番外公演「顔」

2015.5.1.

 出演:重実紗果、和田聖来
Hanare×social kitchen(京都・鞍馬口)

Photo

 京都造形芸術大学在学中に文化庁芸術祭に出演してもらって、モダンダンス界のお歴々から「ダンスではない」といわれて、まぁ自分たちのやっていることをダンスの枠の中のものだとは思っていないだろうから、お歴々は否定したつもりでも、本人たちは何とも感じないか賛辞だと思ってくれているだろうなと思っていたら、やっぱり(懲りずに)いくぶんかはダンス的ともいうような公演を何度か打ちつつ卒業して一年余、今回少し久しぶりに見た。

 ほぼ演劇というか、言葉の元の意味でのコントのような二人のやり取りから、すっと動きに入ってしまうなにげなさ、それがあれよあれよと思う間に激しいいわゆるダンスになってしまって、ある閾値を超えるようなダイナミックな変化が鮮やかだった。
 彼女たちの美点は、怠惰なしょうがなさやいい加減で投げやりな女子の日常の中に、時折けなげなひたむきさが感じられるところで、それが演劇とダンスの使い分けにほぼ正確に呼応して、ダンスシーンの必死さを裏打ちする。演劇が複雑で暴力的な極端な依存関係を表わすことが、ダンスの切迫を用意しているようで、面白い。

 ぼくなどはそのようにダンスを主として観ているが、演劇を主として観る人には、いわゆるダンスのシーンが異様な奇態に見えているのかもしれない。それがまた面白い。このようなどっちつかずの不安定さを保ち続けてほしい。会場に行って席に着いて、始まってみないとどんな世界が届けられるのかわからないというスリルをいつも味わえるユニット。次回もまた楽しみだ。

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京都国際現代芸術祭2015 PARASOPHIA

2015.5.1.

京都市美術館

 こういう芸術祭の見方は難しい。キュレーションの意図、他の芸術祭との比較、出展している芸術家のラインナップ等々、枠組みに気を取られて、作品を見たり考えたりすることが疎かになりがちだ。特に本展は、京都市内数ヶ所に会場を分散させ、しかも市美術館、京都芸術センター以外は、通常芸術空間として機能しているのではない場所での開催だったので、なおのこと場やしつらえ、枠組みに気を取られる。うっかりすると、相対的に作品の力が削がれかねない。それでなくとも、いちどきに多数の芸術家の世界に触れるというのは、相当の疲労を伴う。最近の美術系の芸術祭は、インタラクティブな作品、インスタレーション 、映像作品、サイトスペシフィック  な展示が増える傾向が顕著で、時間がかかる、働きかけなければならないので労力が大きくなる、視野を大きく拡げなければならない。……

 半ば冗談だが、本当のところ一般客は部屋から部屋へと様々な世界が広がるのを虚心に楽しめばよいのであって、それを妨げるものさえなければよいのかもしれない。それでもやはり、現代美術はどこに向かっているのかとか、本展のテーマは…と考えそうになる。多くの作品、作家、展示形態から、何らかの共通性を抽出するという作業は、非常に大きな労力を伴うし、短絡的に矮小化してしまう恐れもある。そもそもぼくはそういうシーンを語るようなことを好まないし、語ろうとすると文脈の中に個々の作品や美術家を押し込めることにもなりかねない。

Cai


 蔡國強の「京都ダ・ヴィンチ」(写真)は面白かった。「会場の中央に組み上げられた六角形七段の塔(パゴダ)を中心に、(中略)派生プロジェクト《子どもダ・ヴィンチ》で身の回りにある材料で子どもたちが自由に制作した作品がパゴダに飾られる」(http://www.parasophia.jp/ artists/cai_guo-qiang/ )という巨大なタワー。また、彼のコレクションから、農民発明家・呉玉録が身近な材料を使って自作した、ジャクソン・ポロックのようにドリッピングで絵を描くロボット、イブ・クラインのように裸の女性の人形を引きずり回すロボットは、見ていてただただ面白い。現代美術のビッグネームの行為を、パロディ化したのか純粋なオマージュかわからない、自作ではない工作物を展示するという意図自体、いくらでも深読みできるだろう。ここで蔡はパゴタを組み上げただけで、そこには子供たちの作品が飾られ、周囲では他者の作品が動き回り、その吹き抜けの会場の一角には小洒落た特設ミュジアムショップがある。つまりこの部屋は、祭りの場であって、その意味では芸術「祭」の中心であろうとしたのだろうし、蔡の本格的な作品を期待したらがっかりしたかもしれないが、子供も大人もずいぶん楽しんでいたようだし、その目的は十分達せられていたようだ。

 スタン・ダグラスの「ルアンダ=キンシャサ」は、延々と(6時間あって、ループ上映しているらしい)一画面でスタジオ演奏するミュジシャンたちの映像が流されている。何かそこに意味があるのだろうが、わからない。この作品に付き合うということはどういうことなのか。ループ上映したところで、一日の開館時間の中で一回半しか上映できない。何を映しているかはわかるし、演奏のクオリティは高くて音楽映像としては結構楽しめるのだが、そこで立ち止まり戸惑ってしまう。 

 ラグナル・キャルタンソンは、ザ・ナショナルというバンドが「Sorrow」(悲哀)という曲を105回も繰り返し演奏したのを収録した「たくさんの悲哀」という作品を展示したが、同じく6時間に及ぶこの作品は、その戸惑いをさらに深めることになる。

 それに比べれば、ハルーン・ファロッキの「トランスミッション」という映像は、わかりやすい。ワシントンのベトナム戦争戦没者慰霊碑など世界各地の聖地で、人々の身体の動きをクローズアップした映像で、祈りという行為を静かに注目させてくれる。

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 石橋義正「憧れのボディ/bodhi」(上写真)は映像を使ったインスタレーション。観客は等身大のリアルな人形が設置された部屋で短編映像を見、移動し、また他の映像を見る。観客はその経験を統合しなければならない(しなくてもよいのだろうが)。ぼくはその映像に素我螺部の二人が出ているという大きな興味があって、わりとゆっくりと見たのだが、その映像のスピード感や予想通りキレキレのダンス、無茶な設定を楽しみながら、上の写真でわかるだろうか、画面と垂直に吊るされた半透明のスクリーンの意味、便器に座った女性の人形や鏡の意味、他の要素との関係等を考える。

 ブラント・ジュンソーの「Liebespaar (Lovers)」(写真下)は、どちらかというと求心性のない男女の石膏像が、大きな展示ケースの中に配置されたもので、そのケースは京都市美術館で、1933年に収蔵品を展示するために作られたものだという。ジュンソーは、そのケースからインスパイヤされて石膏像を作ったのだそうだ。展示ケースと いう枠組みから中に展示する作品が生み出されるというプロセスを楽しむという、複雑な作品だ。
Junceau


 笠原恵実子の「K1001K」(正しくは、最後のKが横向きに反転)は、まず美しいと思った。磁器の白、小さく壊れそうな白が多数並んでいる様を見下ろすのは、愛らしさと壮観を交互に味わうような面白みがあった。しかしこの小さな壊れた磁器の球体は、第二次世界大戦中に製造された陶製手榴弾の遺物からインスピレーションを得たものだという。それを知ると、作品の見方が揺れる。この揺れは、作品の表象の生成について深く考える機会を与えてくれる。

 眞島竜男「二つのコンテンポラリー」は、まさにレクチャーの記録、ポスター・セッションのようなダイアグラムの展示からなるもので、そのテーマになかなか興味があったものだから一通り読んだものの、それが美術作品を体験したかどうかについては、宙ぶらりんのまま、問い自体を投げかけられた格好だ。

 入り口すぐで、最初に出会ったのがジャン=リュック・ヴィルムートの「カフェ・リトル・ボーイ」というインスタレーションだった。広島で開催された「ヒロシマ・アート・ドキュメント2002」で発表され、のちにポンピドゥー・センターのコレクションとなったものだそうだ。原爆投下で大きな被害を受けた広島市立袋町小学校西校舎外壁に残された被爆者への伝言から着想された作品で、ここでも、来場者が自由に黒板にチョークで何かを書き残すことができるようになっていた。この展示スペースではボランティアの男性がこの作品の背景を説明してくれた。確かに説明されるに相応しい作品だ。では、なぜ他の展示室では解説が明確には為されていなかったのだろう。ボランティア の男性は自らの発意で、許可を得て解説を加えていると話しておられたが、やはり思いがあるのだろう。しかしそのことによって、この作品が極度にヒロシマであることになる。もちろん、そういう作品なのだろう。笠原の作品については、そのような解説は相応しくないだろう。
Vilmouth

 笠原作品が美術館の建築様式を意識したものであったように、他にも高嶺格の美術館の地下空間を使ったインスタレーション、通常は閉鎖されている北玄関でのヤン・ヴォーの展示など、美術館という展示の枠組みを意識した、ある意味でサイトスペシフィックな作品が多いのも印象的だった。ただそれは美術館という制度への問いかけというよりは、この美術館の姿に寄り添うものであるように思えた。

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