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2015年9月

2015年9月10日 (木)

松本芽紅見+高野裕子

2015年6月28日

UMLAUT(大阪市・北区)

 考えてみればどのような接点や共通点があるのかよくわからないような気もするのだが、同じ大学を出てはいるし、2人とも魅力的なダンサーであることは間違いない。といっても、現時点でいわゆるエクセレントなバレエダンサーというわけではなく、しかし一定以上のテクニックはきっちりとそなえている。関西弁(松本は兵庫県、高野は奈良県出身)でよく喋り、おちゃらけた感じのダンスもよく踊る。

 高野のコンパクトなアトリエでのダンス公演。リュックを背負って、混み合った客席をかき分けるように無理やり出てきたと思うと、「最近どうなん?」と漫才のように喋り始めて客席の笑いを誘い、燻製に凝っているだの、車窓をただ眺めるのがブームだの、他愛もない(けど結構面白い)話の後、やおら「リスボンで待ち合わせ」ということになる。

 この後の、松本の背中を段、段、と折るような動きが非常に印象的で、何を意味するというのではなく、心に残る。舞台の真ん中にカーテンのように白い布が引かれ、二人が別々の世界に位置することになったとわかる。布を境にして、はみ出ようとしたり、押すとクニャッとなるおもちゃ(「起き上がり○○」「プレスアップフィギュア」と呼ぶらしい)みたいに動いたり、ゆるやかに揺れたりといった動きの一つひとつが、とても丁寧なことが伝わってくる。日常、生命をいとおしんでいるようだ。そうして見ていると、カーテンのような布のゆれ、透けが、実にこの雰囲気に合っている。

 高野が淡々と、倒れ、起き上がりを繰り返すのが、空気が乾いていくように感じられる。薄くなるのではなくて、湿度のように心や身体に絡みつくものがなくなっていく。と思っていると、いきなりザ・ピーナッツの『悲しき16才』だったかが流れる。2人ともちょっとアンティックなワンピースを着ている。松本は真っ赤、高野は花柄。「女の子」的な格好で、まじめな顔をして歌ったり何か飲んだりしている。じめじめしない。

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 カーテンを開いて「おったー!」と叫ぶ。偶然リスボンのホテルで隣の部屋になっていた、という設定らしい。市内を2人で観光し、他愛もない話をしながら、ポカンとして終わる。
 身体の動きを、シンプルな物語と乾いた「女の子らしさ」でくるみ、チョコレートかキャラメルでコーティングされたアーモンドのような、カリッと気持ちのいい時間だった。彼女たちの人柄もダイレクトに伝わってくるし、こんなコーティングによって、ダンスへの門を開きやすいものにしようとしていることが、うれしい。

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宝塚歌劇宙組「王家に捧ぐ歌」新人公演

2015年6月23日

 作・演出:木村信司
 主演:桜木みなと、星風まどか

宝塚大劇場

 主人公ラダメスの桜木は2回目の新人公演主演、タイトルロール、アイーダの星風は初めての主演。

 と言っても星風は入団2年目での大抜擢。前回宙組公演『白夜の誓い』で主役グスタフIII世の少年時代を演じて、さわやかで堂々とした立ち姿、声が驚きをもって迎えられた、娘役のホープだ。

 公演全体としては、主要な役でブレーキとなるような見劣りのする者が1人もなく、歌のうまい生徒が多いこと、そして人数の少ない新人公演で最も懸念されたコーラスに、本公演にも劣らぬほどの迫力があり、非常にレベルの高い、見ごたえのある新人公演だった。

 星風の演じるアイーダは、丸顔が初々しく、見た目はまずかわいいとしか言いようがないのだが、黒塗りの化粧が美しく(やや本役の実咲より黒くしているように思えた)、シャープさを補っていたようで、率直で正直な性格が役の上でよく表われていたように思う。ラダメスの思いを受ける喜びとかすかな戸惑い、父や兄らにラダメスとのことを追及され、逆に彼らをなじる場面、最後の石牢での場面など、振幅の大きい難役を、役から求められるままの大きな振幅で、悲しみ、喜び、決意、怒りなどの様々な感情を演じきったといっていいだろう。歌は地声の伸びが美しく、劇場を満たすボリュームを持っている。テクニカルな面での若干の難はこれからいくらでもカバーできるはず。抱き寄せられる時の背中や掌の表情、視線の強さなどに見られたように、演技もうまく、何より舞台映えがして1人で銀橋を渡る時でも大きな舞台を持たせることができていた。宝塚のヒロインとして最も重要だと思われる、見る者を切なくさせるようないとおしさを持っている。きっちりと育っていってほしい。

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 桜木は前回の主演、『白夜の誓い』に比べて、歌の安定感が格段に増し、表現力も深まった。声はもともと強く魅力的だったが、ブレスにやや不安定なところがあったのが、解決したようだ。本公演でも大きな役がつくようになり、男役としても成熟し、自信がついてきているのだろう。相手役が若かったこと、長の期(新人公演の最上級生、研究科7年)だったこともあり、包容力、リーダーシップの面でも長足の進歩があったことだろう、大ぜいの兵士を率いる姿、星風との場面での大人らしさがすばらしかった。

 見せ場となるのはやはり最後の石牢の場面だが、自分が死んでもアイーダが生きているから世界に希望を残せるといったん安堵し、その直後にアイーダの声が聞こえ、漆黒の闇の中、手探りで相手を見つけ、抱きしめ、愛を確かめるが、「もう、ここから出られない」と絞るように語りかけるシーンまで、この長く大きな感情の変化の表現が難しく思えるところだ。ここが全くわざとらしくなく、自然な流れとしてできており、説得力があった。

 アイーダの兄ウバルドの瑠風輝も姿、歌、演技いずれもすばらしく、見ごたえがあった。新人公演では難しいとされる、専科や組長らの役を演じた穂稀せり(アモナスロ)、留依蒔世(ファラオ)も非常に充実していて見劣りしない。アムネリスの遥羽ららは、本役の伶美とおなじく、やや歌が苦手のようだったが、熱演といえるだろう。少し似合わない役だったかもしれない。宙組の若手の充実がはっきりとわかる、いい新人公演だった。

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宝塚歌劇宙組「王家に捧ぐ歌」

2015年6月27日

 作・演出:木村信司、作曲:甲斐正人
 主演:朝夏まなと、実咲凛音

宝塚大劇場(宝塚市・栄町)

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 初演は2003年星組で、湖月わたるが主役のラダメス、アイーダを男役の安蘭けい、アムネリスがトップ娘役の檀れいというラインアップだった。女性の役を男役二番手が演じるというのは変則的だったが、それ以外に男役で大きな役がないこと、檀がどちらかというと歌が苦手で、安蘭は非常に歌が得意だったために、ヴェルディのオペラ「アイーダ」の筋しか踏まえないとはいえ、オペラ的な、歌を重視した作品にしたいという木村の強い意向もあって、このようなことになったのだと思われる。

 今回この宙組での上演は、朝夏まなとがトップとして大劇場にお披露目となる公演でもちろんラダメス、アイーダ は順当にトップ娘役の実咲で、彼女は前トップ凰稀かなめ時代からの留任である。檀が演じたアムネリスは、若手娘役の伶美うららが演じることとなった。

 再演に当たって、物議をかもしかねないことがあった。それは、初演時にはこの作品はイラク戦争を踏まえたもので、テーマは「愛と平和」といわれていたのを、演出家がわざわざ「再演は<愛>だけでいきます」と語っていたことだ。「歌劇」2015年8月号で小藤田千栄子さんも書いておられるように、「やはりこのミュージカルは、愛と平和だなあ」というのが、ふつうの受け取り方だと思う。小藤田さんはさらに踏み込んで、「多くの観客が、70年間、戦争をしなかった国のことを考え、それは結局のところ<平和>について考えることなのであった。まさに時宜を得た再演であった」と結んでおられる。時節柄、木村は平和を強調することで何かを思われることを臆したのか、と勘繰りさえする。何も言わないほうがよかった。木村は『スサノオ-創国の魁』(2004年、雪組)のプログラムでも、北朝鮮の拉致問題について言及し、ぼくたちを鼻白む思いにさせたことがある 。そういうことはまず観客の想像力にゆだねたほうが、余計な先入観を排し、作品の幅も広がるはずだ。なぜわざわざ、再演に当たって「平和」の看板を降ろす発言をしたのか、理解に苦しむ。

 再演作品なので、あまり物語に立ち入ることはしないが、この作品は、敵対する国家の将軍と王女が愛し合ってしまった、ということに端を発している。この2人の愛を実らせるには、国家の関係、端的には戦争と平和に向き合わなければならない。「この世に平和を」「戦いは新たな戦いを生むだけ」といった歌詞がこのドラマを強く推し進めるのは、2人の愛が2人の間だけにとどまらず、世界に広がる可能性と希望を一貫して抱えているからだ。その希望の眼ざしの方向性を、朝夏と実咲、特に朝夏が全身で体現したことが、今回の公演の成功の理由だったといえるだろう。

 また、組全体の、特にコーラスの力が強かったことも特筆に値する。声が鋭角になって相手を飲み込み圧倒し、また最後には声が一つの祈りとなって次の時代を開いていく。そういうシーンを作る勢いのある歌だった。専科の2人、箙かおる(エジプト王ファラオ)、一樹千尋(エチオピア王アモナスロ)は初演と同じ役だが、演技、歌(特に箙)に一層の充実が見られ、舞台の緊張感を高めた。

 朝夏については、『翼ある人びと-ブラームスとクララ・シューマン』(2014年、シアター・ドラマシティ)の歌で声が何度か裏返り、声の薄さが問題かと思っていた。『ベルサイユのばら―フェルゼンとマリー・アントワネット編―』(2014年、全国ツアー)で主役のフェルゼンを演じた時にも、歌声が前に出ず、そのために、フェルゼンとしての大らかなスケールを感じられなかったのが気になっていた。事実上のトップお披露目となったミュージカル『TOP HAT』(2015年、梅田芸術劇場メインホール)は、もっとタップダンスを踊りまくるのかと思っていたら、群舞はともかく、朝夏個人は思っていたほどではなく、演技もテンポの速いコメディを進めていくのに必死で、ブロードウェイらしい余裕が感じられない物足りなさがあった。

 しかし、『銀河英雄伝説@TAKARAZUKA』(2012年)のキルヒアイス、『翼ある人びと』のブラームス、『白夜の誓い-グスタフIII世、誇り高き王の戦い』(2014年)のリリホルンと、屈折を抱え、劇中で振幅の大きな変化を遂げる好青年を演じると、非常に切なく的確な演技で見せる。人となり、佇まいといったものが素直に透け見え、悲劇の中にも明るい印象が残るのが朝夏の魅力だ。だから、彼女のトップ就任には、期待と不安の両方があった。

 堂々としたものだった。不安だった歌がすばらしかったし、充実したコーラスに乗っての演技がすばらしかった。たとえば、疾走感あふれる、銅鑼を数える石室のシーンでのコーラスをバックに、視線の方向だけでドラマをきっちりと捉え返せるのは、目の大きな朝夏ならではともいえるが、それ以上に、全身がドラマの行く末を捉え、強気と躊躇を行ったり来たりする心の揺れがはっきりと伝わり、存在に説得力があった。アイーダとの柔らかい歌では、朝夏の大らかなやさしい雰囲気が過不足なく声に乗っていたようで、聴いていて心地よかった。こんな歌が歌えるようになったかと、感心した。舞台映えする姿の美しさはいうまでもなく、衣裳の金色がよく似合って、お披露目に相応しい豪華さ、華やかさだった。

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 実咲は、花組で新人公演『麗しのサブリナ』(2010年、本役は蘭乃はな、相手役は瀬戸かずや)で鮮烈なデビューをした後『ファントム』『復活』(共に本役は蘭乃はな、相手役は鳳真由)と、大作の新人公演で主役を演じ、バウホールの『近松・恋の道行』でも主演と、着々と成長してきた。

 特に『ファントム』のクリスティーヌでは、率直な評価で知られる薮下哲司氏が「クリスティーヌの実咲は、この役が歌のうまさが命であることを改めて実証してくれた。これまで数多くの娘役スターがクリスティーヌを演じてきたが、これほど見事なクリスティーヌは初めてだった。天使の声をもち、しかも感情表現が豊かで、芝居心もあった。(中略)久々に大物娘役誕生を見た思いだ。」  と絶賛するほどの実力、魅力を具えていた。

 ところが、2012年に宙組に異動し、凰稀の相手役になった2年間は、役にも恵まれず、その闊達で奔放なところさえあった大らかさが影を潜め、歌の魅力も一段あせてしまったように思えた。

 そんな時期を経てのトップ残留、そして大作への挑戦ということで、実咲のアイーダにも、期待と不安があり、率直にいえば不安のほうが大きかった。

 柔らかで表情が生き生きとして、感情移入のしやすい、存在感のしっかりしたアイーダだった。表情の豊かさが、アイーダの置かれた立場の複雑さを余さず表現し、その短い波瀾に満ちた一生を観る者に強く印象づけることになったはずだ。歌も非常に豊かな表情を持ち、伸びやかで心地よく、入り込みやすかった。つまり、彼女のアイーダは、観客個々にさえ「アイーダは、私だ」と思わせる力を持っていたように思う。一つには、彼女になりかわって、ラダメス(=朝夏)の抱擁のうちに事切れたい、という宝塚ファンなら当然抱くはずの願望。さらに、愛と何ごとかの狭間で苦しみ悶える自分の姿との重ね合わせ。

 石牢の暗闇の中で互いを見つけ、ふれ合った時の喜びは劇場の中のすべての人が自分の喜びとして実感できたものだっただろう。それは決して現世では実らないという切なさがある。朝夏にとってすばらしいスタートだったし、実咲にとっても絶好の再スタートだった。星組から移ってきた真風涼帆もアイーダの兄ウバルドとして大きな存在感を示して、フレッシュな三角形となりそう。アムネリスの伶美は、まず美しく、演技も非常にうまく、強い。ただ、課題の歌はなかなか一皮むけない。見た目には、呼吸の仕方に問題があって、背中から肩にかけて上半身が背後からどんどん前にのめってしまい、胸からのどを圧迫しているように思える。ちょっと上半身の重心を後ろに置いて、肩を落とせば、ずいぶん楽になるのではないだろうか。これからさらに大きな役がついて、ボイストレーナーの指導もきっちりと付くだろうから、いずれ解決されるだろう。これからの宙組が実に楽しみだ。

(舞台写真は、宝塚歌劇倶楽部掲載の、朝日新聞デジタルから。ただし朝日新聞デジタルでは未確認)

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「TABU タブー」

2015年6月26日

 原作:フェルディナント・フォン・シーラッハ
 上演台本:木内宏昌、演出:深作健太
 出演:真田佑馬 大空祐飛 宮本裕子 佐藤誓 池下重大 大沼百合子 橋爪功

兵庫県立芸術文化センター阪急中ホール

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 弁護士でもあるドイツの小説家シーラッハの長編小説『禁忌』(2015、東京創元社)を、世界で初めて舞台化したもの。現実と、妄想あるいは芸術のリアリティを問いかける、硬質な法廷劇だった。ドラマの細部をよく考えてみるといろいろと腑に落ちないところもあるのだが、この公演が何とか成功した理由のほとんどは、橋爪功の演技のすばらしさにあった。

 1人の若い女性が誘拐監禁されたという通報がある。写真家のゼバスティアン(真田)が容疑者となる。捜査官の脅迫的な尋問によっていったん自白してしまうが、元恋人のソフィア(大空)は彼の無実を信じ、敏腕弁護士のビーグラー(橋爪)に弁護を依頼する。
ゼバスティアンは、写真家で、文字と色彩をシンクロする特殊な能力を持っているということだが、その能力については、ごく単純な形でしか明示されない。写真家としては、扱う対象が非常に猟奇的であることが示され、それなら監禁や殺人もするだろうなという先入観を持たせるようなところはある。

 前半の、自白の有効性についての応酬が法廷劇としてはピークと言えるかもしれない。捜査官の尋問の違法性の判断によって、自白の有効性が左右される。被害者が特定も発見もされていないという異様な状況で、どんな手段を使ってでも自白させ、被害者の所在を明らかにしたいと焦る捜査官の意見にも理があるように思う。この捜査官が、もっと好感が持てるような存在に造形されていたら、この劇の複雑さは前半からもっと増しただろう。

 大きな問題は、被害者は誰かということなのだが、これがなかなかわからない。当初予想された義妹は存命していることがわかったし、そのことが紹介される過程で、義妹とゼバスティアンの、芸術を介した複雑な関係が明らかにされる。ソフィアもかつて、そのような関係で、彼の芸術上のパートナーだったことがわかり、義妹、ソフィア、ゼバスティアンの三角関係が示されるのだが、これはもっとキリキリしたものであってもよかった。

 結局、この監禁や殺人という一連の「事件」は、ゼバスティアンの作品の中のことだったことが明らかになる。この過程も、法廷でその映像が上映されるというだけのことで、あっけない。芸術の作品の中での犯罪は犯罪か、というのはまともな形で問いになるのだろうか。芸術行為としての殺人は犯罪かと問われるならまだしも。

 原作自体にも詰めが甘い部分があるように思え、演出にももっと演劇的な彫り込みの深さがほしかったと思えたのだが、橋爪の演技の迫真性だけは、実に凄まじかった。法廷で交わされる専門用語の多い長台詞を、高いテンションで押しまくる姿は、ビーグラーという人物がまさにそこにいるというリアリティがあった。

 元宝塚歌劇の男役トップスターの大空は、ほぼクールな演技に徹した。ジャニーズJr.の真田は、まず問題のない演技だったことで大いに評価されていい。クールだったりヒステリックだったり、ファナティックだったりといった様々なシーンを的確に演じ分けていた。

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遊劇体「ふたりの蜜月」

2015年6月21日

 作・演出:キタモトマサヤ
 出演:大熊ねこ 坂本正巳 村尾オサム 鶴丸絵梨 松本信一、久保田智美
 アトリエ劇研(京都市・左京区)

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 驚くほど、厳しい作品だった。厳しいというのは、激しいというのとはまた違って、観ていてどんどんこちらの人間としての立場がなくなっていくような感覚。さらに何といえばいいのか、こちらの人間性までキリキリと削がれてしまうような。2013年10月の「往生安楽国」以来、2年ぶりの新作だという。この劇団が2002年から取り組んでいる泉鏡花戯曲全作上演シリーズの中の『恋女房~吉原火事』(2013年6月、アイホール)を思い出す酷薄さもあり、そういうものがこちら側に押しつけてくる「たまらなさ」を堪能できた。
 双子のサトコ(大熊)、ヒナコ(久保田)、全然似ていないが、それはすぐに気にならなくなる。二卵性と書いてあるし。

 大阪府南部(キタモトは泉南郡熊取町出身)の山間の架空の町ツダを舞台としたシリーズだそうで、そこで林業、製材所を営む家の娘。サトコは高校卒業後、家業を継ぐ。ヒナコは家を離れ短大へ進学した。姉妹は一事が万事こういう対照的な関係。父親は町会議員でもあるようだが、家業はどんどん傾き、いよいよ整理するかどうかという瀬戸際。その渦中にあるサトコと、大阪で学生生活をおそらく楽しんで、やっと就職かというヒナコのコントラストも残酷だ。

 姉妹、親にしつこくどす黒く絡むツネイチ(坂本)は父親の営む製材所の社員だが、工場の事故で左腕を切断し、博打にふけり、慰謝料だとはいわないがと前置きをしながらサトコらの両親に金をせびったり、ヒナコにつきまとってあらぬ噂を流したりと、およそ悪事の限りが吹き溜まっているような男。見ていて憎くて憎くてしょうがなくなる。この劇の厳しいやる方なさは、この人物の存在からも来ているように思える。

 始まりは、2人の姉妹の両親が無理心中したらしいというシーンから。まずここでの姉妹の取っ組み合いが激しい。現場は相当凄惨なものらしい。現場を見る見ない、警察にまず通報するしないなど、いちいち2人は言い争い、取っ組み合う。劇では徐々にどうもこれは経営難によるものではなく、夫の女性関係に耐え切れず、妻からの心中だったらしいことがわかっていく。一つひとつの出来事に、いちいち一層悲惨な出来事が控えているのが、やりきれなくて段々滑稽に思えるほどで、それもこの劇の厳しさを裏打ちする。

 サトコは確かに大変な状況にあるが、自分の置かれた環境を過度に制約として意識し、自らがんじがらめになっているという面もあるだろう。高校の同級生のマサコ(鶴丸)が帰省して会っている時に、神社の境内で大雨に降られ、檜の森の精に取り付かれたかのように踊り狂う場面で、宝塚歌劇の伝説のショー「シャンゴ」  はこんなではなかったろうかと思わせるような激しい憑依の乱舞を見せるのだが、これが憑依だったとしたら、何が憑いたというのだろう? これは憑くというよりも狂れるという形で自己を解放しているといえるかもしれない。彼女のがんじがらめを、一時的に解き放つために、深い森と激しい雨、何より時間を遡って現在の自分を見るための、少し距離を置いた旧友が傍らにいることが必要だったわけだろう。この乱舞は、本当に凄まじいものだった。身体の芯を外してぐちゃぐちゃにしてしまうといっていいだろうか。身体の構成要素がすべて中心から離れたくて外向していくような感覚で、それが観ている者にもダイレクトに伝わり、こちらの身体までばらばらになっていくような。だから、解放といいながらも、全く安寧に結びつかない。この乱舞の時間を終えて、彼女は一層深い闇に沈み込んでしまったのではないかと思ってしまう。この劇の厳しいやりきれなさは、ここからも来ている。

 いろいろあって、すっかりダメになってしまった姉妹。サトコは家を失い職もなく、山姥のようになってひどい格好で山中を徘徊しているという噂が流れている。ヒナコはツネイチに売り飛ばされたらしい。小さな集落に暗い噂がかけめぐる。ラスト、戻ってきたのだろうかヒナコをサトコが背負って、ガッシガッシと山道を分け入っていく姿が凄まじい。身体的にも相当つらそうな場面だが、この場面に集約された物語と感情の複層を、こんなにも的確に表現することができるものかと、演出にも演技にも身体にも感動した。演劇というものが、現実を集約し、煮詰め、結晶させたものだということが、はっきりとわかったシーンだ。物語の結末は確かに非情にやりきれなくつらいものだとわかっているのだが、最後のサトコとヒナコの、俗世をも人間をも突き抜けたような姿に、圧倒され、演劇的至福のようなものに打ち抜かれながらの暗転となった。何ヶ月かたったので、ようやくもう一度観たいと思う。

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「モダン芦屋クロニクルーアート、ファッション、建築からたどる芦屋の芸術」

2015年6月14日

 クラシックコンサート「芦屋モダニズムに思いを馳せて」
  ヴァイオリン:松浦奈々
  パーカッション:安永友昭
  ピアノ:宋和純

芦屋市立美術博物館(芦屋市・伊勢町)

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 展示は、芸術分野が「プロローグ」「小出楢重と芦屋」「芳醇なモダンの風/福井市郎・上山二郎」「伊藤継郎と芦屋」「芦屋カメラクラブ」「芦屋市美術協会」「吉原治良/具体美術協会」に分かれ、100点近くを展示。歴史分野が「近代化の夜明け前-江戸から明治へ」「名建築の爛熟期-1900年代前半を中心に」「新たなライフスタイルの時代-1880年代後半から戦後まもなく」「歴史がつくる現代-戦後から現代へ」となっており、芦屋という街の文化的な成り立ちに、多面的にアプローチしようとするものだった。

 1階のエントランスホールで開かれたコンサートは、貴志康一「竹取物語」(1933)など、ガーシュイン「3つのプレリュード」(1926)、バルトーク「ルーマニア民俗舞曲」(ピアノ版1914)、ピアソラ「リベルタンゴ」(1974)という構成。貴志と同じく、1920-30年代に活躍した作曲家の作品を集めたのだという。

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 貴志は1909年に大阪で生まれ 、9歳で武庫郡精道村浜芦屋に転居、甲南小学校・中学校・高等学校を経て、ジュネーヴ国立音楽院、ベルリン高等音楽院に留学して帰国。ベルリン・フィルハーモニーを指揮してテレフンケン社からレコードを出すなど内外で旺盛な音楽活動を行う。しかし虫垂炎をこじらせて腹膜炎に倒れ、芦屋の自宅で療養していたが、翌年28歳の若さで逝去。芦屋を出自として世界的に活躍した音楽家として、知る人ぞ知る存在だ。(写真は甲南高等学校・中学校のウェブサイトから。撮影:中山岩太)

 展覧会では、貴志は「名建築の爛熟期」のコーナーで旧山邑家、山手小学校、六麓荘、甲子園ホテルと並んで、その邸宅が取り上げられ、ステンドグラス、洋館設計図と直筆譜面が展示されると共に、いくつかの曲をヘッドホンで聴けるように再生装置が用意されていた。貴志康一なるものの生成の由来を、芦屋の邸宅に象徴される大阪財界人の文化基盤に見出したということになる。実際、貴志の祖父が大阪船場でメリヤス業などを営んで財を成し、その息子(貴志の父)は東京帝国大学哲学科で美学を学び、優れたピアニストでもあったという、20世紀初頭の日本ではおそらく破格の財力と共に、教養と芸術の蓄積の豊かな家庭環境から、貴志は生まれてきたといっていい。もちろんそれを強調したからといって、貴志個人の音楽家としての価値が下がるわけではない。ただ、芸術や文化というものを育てる土壌として、芦屋的なものの重要性、文化資本の強度を強調することは、現在において様々な意味で興味深いし、この美術館が具体美術協会や中山岩太やハナヤ勘兵衛らの芦屋カメラクラブを扱う際には、基本的に芦屋の文化、阪神間文化の果実としてという、地域の優越性からスタートしているように思う。

 文化資本の蓄積という点で、芦屋や隣接する深江文化村 、西宮七園  に代表される阪神間が、圧倒的な質・量を擁していたことは、いうまでもない。市立の美術館としてその地域特性から豊かな芸術文化が花開いたことを強調するのは、自然なことであって、それが単なる「郷土の芸術家」に終わるものではないことが、芦屋の地域性として、特筆されるべきことだ。つまり、単に郷土出身の芸術家だということだけで何人かの芸術家の作品を集めるのではなく、それが具体に代表されるような一つの芸術運動体となったこと、そしてこの地域性にそれらの芸術運動、芸術家を生み出した特性をさぐり、さらに新たな芸術を創造する土壌でありうることを確認し、この美術館が現代美術に関しても、新たな創造と発表の場であることを強く意識した展示やワークショップ等を行なっていることは、銘記されてよい。

 このコンサートについても、単に貴志の作品を並べるのではなく、彼と同時代に活動した作曲家の小品を並べたわけだが、それによってはっきりと見えてきたことがある。ガーシュインがジャズ、バルトークが中欧の民族音楽、ピアソラがタンゴと、それぞれの国や地域のルーツとなる音楽を基にして創作活動を行なったように、貴志も日本の音楽家として、地域性、民族性の特殊を踏まえ、それを通過した普遍性に到達することを意識していたことが、切実にわかる選曲だったということだ。その行程は、芦屋や阪神間という地域性から普遍への道筋を探るこの美術館の模索と軌を一にしているように思われる。会場のエントランスホールに展示されていた吉原治良らの大作とも大らかな空間性が通底しているようで、気持ちのいいコンサートだった。

 貴志が長生きしていたら、作曲家、バイオリニストとして活躍する一方、晩年にはどこかの音楽大学の教員となって後進を育てただろうが、時折芦屋の貴志邸で(貴志家が裕福なまま存続したならの話だが)  若い音楽家を集めて私塾のような集まりを持ち、具体の吉原治良のような音楽における芸術運動のリーダー的存在になっていたかもしれない、などと夢想するのは楽しい。阪神間には、そういうサロンの気風がある。

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 さて、展覧会はほとんどが館蔵品で、美術分野については過去の上山二郎、伊藤継郎展、芦屋カメラクラブ展などを思い出しつつ、芦屋の美術家を堪能できるコンパクトなもの。この美術館のコレクションをよく知っている人にとっては、とてもわかりやすい展示だったと思う。尼崎市総合文化センターからの白髪一雄による野外展のスケッチや原画が、現場の感覚を髣髴とさせて、面白く思えた。歴史分野は、摂津名所図会に代表される江戸時代からのこの地域の豊かな地域性を提示し、阪急や阪神の市街開発、阪神間モダニズムを強調するもの。芸術、生活、建築、歴史など、文化の諸相を総合的に取り上げる、この施設らしい展観だった。

 7~8月には江之子島文化芸術創造センターで「浮田要三の仕事展」が開催され、子供のための詩誌「きりん」が大きく取り上げられたこともあり、具体メンバーの再評価、発展的継承に、この美術館がいっそう重要な役割を担うことも期待できる。また、いわゆる展覧会「関連イベント」の関連性についても、慎重に考えさせられる好企画だった。その他のイベント、建築見学会や茶話会、「阪神電車のわくわく探検ツアー」には参加できなかったが、意欲的で楽しそうなイベントが続々で、これらをきっかけに芸術に深く親しむ市民が増え、市民が地域に対する愛着を深め、次代の創造性が生まれるといい。

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baghdad cafe「キンセアニェーラ」

2015年6月13日

 脚本・演出:泉寛介
 出演:近藤ヒデシ(COMPLETE爆弾)、吉田青弘、一瀬尚代、辻るりこ、松本絵理、村山裕希(dracom)、佐藤健太郎、古荘真也、泉寛介

ジャン・トゥトゥク(大阪市西成区)

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 タイトルはスペイン語で、15歳になった女の子をお祝いするパーティのことだという。劇団が15回目の公演を迎えたことを記念してのことだそうだ。作品の中で特にそれが取り上げられたり強調されたりすることもなく、最後の乾杯の掛け声に使われた程度。自祝的なタイトルである。

 3つのコンセプトに従った実験的作品の上演、出演者との交流、そして観客の投票によって12月に上演する作品を決める、という複数の仕掛けを仕込んだ上演。こういう投票とか勝ち負けとか、「火曜日のゲキジョウ」や「CTT」もそうだが、何だか面倒くさいというか鬱陶しくて、あまり好んでは行かないのだが、今回は出演者の無理やり押しかけ交流があって、dracomの村山さんとお話しできて、よかった。

 1つ目の「案劇」というコンセプトは、「かむ」「ずれる」といったアクシデンタルな出来事を逆手にとってゲーム的に再現してみたり、「しりとり」で台詞を言いながら怪談を語ったりするという、コンセプチュアルということ自体を小馬鹿にしているような奇妙な作品たち。面白いものもあった。転換時の女優陣の不思議な振りが居心地の悪さを物語っているようで、面白かった。

 2つ目の「チル、アウトバーン」は、「サイケデリックな空間」の中で1人の男と3人の女性が、男の恋の思い出を飾り立てるように、ダンス、照明、音楽で構築していく作品で、その冒頭の一部を見せたもの。村山が醸し出すスノッブな雰囲気もなかなか味わい深く、他の構成要素との調和が面白かった。

 3つ目の「作演不在最終公演」は、作者兼演出家の女性が失踪しているという現在から、時間を遡ったり戻ってきたり、空間をあちこちに移しつつ、ドキュメンタリータッチで失踪の謎を追うという作品で、前半のダイジェストを上演したそうだ。この作品自体が、架空の作者による3つの作品のオムニバスから成っているらしい。断片が断片として切迫感があって、舞台のしつらえも面白く、複雑そうな人間関係のことは少ししかわからないし、同じことが繰り返されているようにも見え、もどかしいながらも、なかなか興味深かった。

 せっかくなので投票結果だが、3作品ほぼ同数を集めたため、劇団内で協議の結果、「作演不在最終公演」に決まったらしい。

 見終えて思ったのは、泉はいったい何をしたくなっているのかな、ということだった。あふれる才能、湯水の如く湧き出る発想を持て余しているのかもしれない。とにもかくにも、複雑そうな「作演不在最終公演」の本公演を楽しみに、泉が何を考えているのかは、しばらく保留しておくことにしようか。

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能楽と現代音楽「未来の音風景(2)~舞囃子とコンテンポラリーダンス」

2015年6月9日

 作曲・ピアノ・演出・声・打楽器:久保洋子
 クラリネット:ドミニック・ヴィダル
 振付・ダンス:佐藤知子
 能楽:梅若猶義、越賀隆之、河村晴道、梅若基徳
 笛:赤井敬三、小鼓:成田達志、大鼓:谷口正壽

兵庫県立芸術文化センター神戸女学院小ホール(西宮)

 作曲家、大阪音楽大学教授で、ピアノをはじめ、パーカッション、謡曲、小鼓など様々なジャンルに挑戦している久保洋子の意欲的な公演の第2回目。

 まず、久保作曲のクラリネットとピアノのための「Vortex」(世界初演)は、クラリネットのノンアタックで始まる非常に静かな音の中に、ピアノがきらめく光のように入ってくる、冒頭から美しい作品。ピアノとクラリネットが、遠ざかったり近づいたりと、空間的に動いているようであるのが、興味深い。クラリネットのベルの部分(先の開いた部分)をピアノの大屋根の下に入れて大きな音を吹き、思い切り響かせてみたり、ひしゃげたり転がったりするような様々な音色を並べてみたりと、自在な演奏がスリリングだった。vortexは、渦、渦巻きという意味だそうだが、二つの楽器が絡み合って螺旋(spiral)を成すというより、近づいたり離れたりして複雑に絡み合いながら、並走して激しく流れていくような印象を受けた。

 続いて、能楽から「景清」の居囃子、久保と能楽の師に当たる越賀隆行、成田達志による鼎談、「紅葉狩」の中之舞の舞囃子(下写真。シテは梅若)と続く。
Momiji03

 鼎談では、前回の「鉄輪」、今回の「紅葉狩」と続けて鬼女ものを取り上げること、「紅葉狩」を取り上げるに当たっていろいろと迷いがあったことや、久保が学んできた西洋音楽と謡曲との考え方の違いなどについて、エピソードを交えながら興味深いお話があった。

 クラシック音楽対応の、音響のよいホールで能楽にふれると、音がよく響くのはいいのだが、音が回りすぎて息苦しいように思う。いうなれば、抜けがない。大鼓の音など、カンと打てばコーンと正面席上方に向かって放物線を描くように飛んでいく感じが好きなのだが、アリーナ形式で多角形のきっちりした閉鎖空間であるホールでは、音がしばらく滞留してしまっているようで、戸惑った。改めて能楽堂のいい具合に隙のあるゆるさが能楽の音空間にとって不可欠なものであることを知ったように思う。

 その後、久保の作曲・演出で、佐藤の振付、ハープやフルート、森充生・村上麻理絵のダンス、クラリネットのドミニックも加わって、「MOMIJIGARI」。

 久保はパーカッションとヴォイスで、紅葉狩の舞台となった山中の深い空気を定めるようだった。フルートとクラリネットが縺れ、久保がサイレーンのように声を発していると、ダンサーたちが登場する。久保も混じって、床に横になった森を踏みつけたり、森が佐藤を抱え上げたり、「紅葉狩」の筋を思わせるような場面展開となる。物語とダンスや音楽の距離感が、ワンクッションあって、なるほどと思われるぐらいの近さなのが面白い。小道具としての椅子の扱いも、その存在によって逆に各人の居場所の不安定さを強調するようで、アイロニカルだ。音楽は基本的には劇音楽のように物語の流れを速めたり遅らせたりし、ダンスもある部分では感情的な側面を膨らませたり、佐藤と森の関係を結構リアルに描いたりして、物語の流れ というものを中心の軸にして、音楽とダンスが不規則に周回しているようだった。時に近づき、時に遠ざかり、ぶつかりそうになるのが面白い。
Momiji02


 舞踊、音楽、物語の関係と効果という点で、なかなか完成度が高く、理想形に近づく道筋が見えてきたのではないだろうか。次回もまた楽しみだ。

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法村友井バレエ団第14回アルカイック定期公演

2015年6月7日

「フランチェスカ・ダ・リミニ」(音楽:チャイコフスキー、振付:友井唯起子)
「パキータ」(音楽:ミンクス、振付:法村圭緒)
「ボレロ」(音楽:ラヴェル、振付:法村牧緒)

あましんアルカイックホール(尼崎市・昭和通)

Houmura
 『パキータ』で法村圭緒の気品あふれる姿にふれた後、悲恋物の中篇『フランチェスカ・ダ・リミニ』、フランチェスカ法村珠里の成長ぶりが注目された作品だが、醜い兄ジョヴァンニの今村泰典、ハンサムな弟今井大輔ともに、見ごたえがあった。

 政略結婚させられそうになった相手ジョヴァンニは勇猛な戦士だが、容姿が醜く、フランチェスカが嫌がっているというので、父親らは弟パオロ(史実ではこの時既婚で、子供もいた)を代理人として結婚式を挙げさせる。しかし、または当然二人は恋に落ちてしまい、ジョヴァンニに殺害される。皆実在の人物で、ダンテ『神曲』をはじめ、戯曲やオペラ、音楽など様々な芸術作品に結実している。 『神曲 地獄篇』では二人は地獄に落ち、永遠に黒い風に吹かれ、漂い続ける。

Limini

 三者共に、激情に駆られるピークとして結末を迎えるのが、バレエ作品としてロマンティックかつドラマティックで、シンプルに美しい舞台に仕上がっていた。今井は史実は別としてノーブルな王子様のスタイルを、着実なテクニックで演じ通した。法村珠里も直線的な激情がよく表われていたが、道ならぬ恋であることを知る前と後とのコントラスト、揺れを見たかったようにも思う。

 法村牧緒振付の「ボレロ」は、ロシア公演で絶賛された作品だそうで、スパニッシュなスタイルを打ち出し、おそらくはベジャールを意識しないことを課して創ったと思われる作品。ドラマティックな昂揚については、音楽と舞台の装置や効果、照明、人数にゆだね、堤本麻起子、中内綾美、今村泰典をはじめとしたダンサーは、意外に終始クールできっちりと正確なテクニックを見せることに終始しているのが、特徴的な作品だったように思う。
Bolero

(写真は、撮影:尾鼻文雄、Dance Cubeチャコットウェブマガジンから)

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入澤あづさ展「URUSHI Exhibition」 岩田萌個展「strata」

2015年6月7日

SUNABA GALLERY(大阪・日本橋)

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 入澤の作品(写真上)は、乾漆(かんしつ。麻布を漆で張り合わせた造形)とオウムガイを継いだもので、継いであることは認識できるのだが、継ぎ目の存在をほとんど感じられない滑らかな曲面が、実に美しい。ここまで滑らかだと、艶かしいという言葉が出てくる。先日、お能についての講演の中で「冷艶」(れいえん)という言葉を耳にしたが、まさにそのような状態。辞書では「冷ややかな美しさ」などというが、この美しさにはなまめかしさが宿っている。そこには湿度と温度がある。つまりそれは一つの矛盾体だ。身体に近い。
 貝も、布も、生命だったものだ。それに永遠の命を吹き込むことができるのか、美は(芸術と言ってもいいが)何ものかを永遠のものにすることができるのか……とは、また陳腐な問いだが、それでもそれを突きつけられるような美しさだ。
 「太古からほとんど姿を変えておらず、"生きた化石"と呼ばれることのあるオウムガイを遥かな時の流れの象徴として作品に取り入れたいと」思ったのが、京都市立芸術大学大学院の修了制作のときだったという。オウムガイを螺鈿の素材として使うのではなく、「"形体にともなった加飾とはどのようなものか"ということを考えていたのですが、作品を制作する中でオウムガイの特徴である真珠層や隔室の螺旋構造は、漆の装飾としてそのまま取り入れられるのではないかと考え」た上で、漆芸でありながら(というのも妙か)、漆とオウムガイが等価に内外に光を放っている。内側で何度も行きつ戻りつし、弾みでやっと外に出て来たような、熟した光のように思える。そういう、時間を抱えた美しさであるように思える。
(引用: 「アート情報総合サイト京都で遊ぼう京都の若手アーティスト特集KYOTO NEW WAVE」から。http://www. kyotodeasobo.com/art/newwave/2013/10/azusa-irizawa.html)

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 岩田萌は、映像インスタレーション(写真上)。strataは、地層や層という語の複数形だという。
 入澤の展示が1階、きしむ木の階段を昇った2階は岩田の作品。床もぎしぎしときしむこのスペースに、何だかとてもよく合っているように思われる。時計、鍵盤、ダイヤル、ねじといった規則的に動く少しノスタルジックなものを提示し、いつしか観る者をその規則性の中に巻き込み、それがずれていく崩落感覚のようなものを共に体験させてしまう。そういう魅力がある。結果的に、その仕掛けや仕組みがわかってからも、長い間この部屋にいたいと思わせられる。なんともいえない心地よさを味わうからだ。
 映像は確かに時間芸術であるが、ここでは時間が物語や筋を完結するものではない。空間作品として成立するための瞬間性のようなもの、正確に言えば、長い瞬間を持っている作品だったようだ。その意味で、これは古めかしく見えて、かなり新しい作品たちだったといえるだろう。 

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OSK日本歌劇団『レビュー春の踊り』

2015年6月7日

 「浪花今昔門出賑」(なにわこんじゃくかどでのにぎわい) 構成・演出・振付:山村友五郎
 「Stormy Weather」作・演出:荻田浩一
大阪松竹座(大阪・難波)

Osk
 OSK日本歌劇団が、新たに高世麻央(1996年入団)をトップに迎えたお披露目公演。これまでの桜花昇ぼる(1993年入団)をトップとしたトリプル体制から、桜花が抜けて、高世と準トップとでも呼ぶべき桐生麻耶(1997年入団)が男役の中心、娘役では朝香櫻子(1995年入団。2015年2月に特別専科へ異動)、牧名ことり(2001年入団)が充実している。また、悠浦あやと(2008年入団)、楊琳(2007年入団)といった若手の成長が著しい。このように今のOSKは、近年稀な充実期にあるといっていいだろう。

 2002年に近鉄が手を引いて後、存続の危機にさらされ、事実上自主公演に近い、つらい時期があった。多くの団員が舞台を去り、入団直後だった牧名も一度は舞台を離れている。その時期を経験したベテランがその苦労を耐え、語り継ぎながら、紆余曲折を経て、何とか京都・南座公演、東京公演を実現し、2012年には90周年を迎え ることができた。公演後のアフタートークなどで、桜花や卒業生が対談すると、経営難時代の赤裸々な苦労談をすることがあった。OSKにそれほど思い入れがあるわけではなかったはずのぼくでも目頭を熱くするような出来事があったようだ。

 日本物のショー「浪花今昔門出賑」は、山村友五郎の構成・演出・振付。山村は日本舞踊上方舞・山村流の家元で、昨年同流の大名跡・友五郎を襲名した中堅。宝塚歌劇団の元理事長・演出家の植田紳爾のご子息で、宝塚歌劇の日本物の演出・振付にも多く携わっている。殺陣やスピーディな舞で「ダンスのOSK」と定評のある身体のキレやスピードを存分に発揮したほか、天神祭の船渡御や南地の「へらへら踊り」、大阪をテーマにした歌謡曲のメドレー、など、道頓堀開削400周年を記念した演目ということもあって、大阪らしい情緒あふれる構成で、OSKらしさを見せた。

 この大阪情緒というのが、宝塚歌劇にはなく、OSKにある特徴的なものだ。そうなった経緯は、SKD(松竹歌劇団)との関係など、様々な歴史的な事情もあるのだろうが、今のところ、全国展開を妨げている一方で、大阪のファンがそう増えているわけでもないという中途半端な立ち位置にあるといわざるを得ない。

 しかし、今回の「浪花今昔門出賑」で緋波亜紀が語った安井道頓の事蹟や道頓堀の歴史は、大変面白かった。緋波の台詞回しのしみじみとした落ち着きもあって、大阪弁のお芝居というと何やらおちゃらけた喜劇ばかり思い起こされるのが、きっちりと情のある、人間としての蓄積の感じられる姿で、美しかった。

 何よりこの日本物で興味深かったのは、「南地大和屋へらへら踊り」だ。藤山寛美の芝居でも知られているようだが、昨年行われた山村友五郎の襲名披露公演でも舞台に上げたもので、明治10年に置屋として宗右衛門町で創業、一流の料亭として名を成した南地大和屋に伝わった踊りだという。牧名以下、9名の娘役が、気丈で気風のいい、予想外に激しく運動量の大きな動きが展開される。下の写真は「しゃちほこ」といわれる倒立だが、このようなことが座敷芸として披露されていたことに驚く。セクシーというよりは、少し泥臭さもあるお色気を感じさせるシーンも多いのだが、そうかと思うと、こちら側に強さがパシッと押し出される。OSKは宝塚歌劇団に比べて、娘役が重用されている印象が強いが、さすがにその娘役たちの気合、意気込みといったものを強く感じさせる、ピンと張りのある舞台だった。中心となっていた牧名ことりの11月での退団は、本当に惜しい。
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 「Stormy Weather」は、元宝塚歌劇団の演出家、荻田浩一の作ということでも話題になった。荻田らしい、ジャズの香気に満ちて、スピーディで切れ目のないテンポの速い展開で、雨、嵐をテーマにまとめた、手堅く締まった作品。若手男役の悠浦あやとが、極楽鳥で美しい姿態を見せ、専科の朝香櫻子が大人っぽい魅力を振りまくなど、色調がはっきり定まり、OSKではあまり感じることがなかったような、カラフルでスピーディな官能性が感じられ、興味深かった。
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実験劇場「ディシジョン・ポインツ」

2015年6月5日

 姉と妹(吉見英里・吉見理沙)
 高瀬瑤子・竹ち代毬也(原和代)
 Piece Dance(鈴木みかこ・井戸陽平、田岡和己)
 め~たんず(市川まや)

メイシアター小ホール(吹田市・泉町)
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 公募による3作品と、市民から出演者を公募した作品によるオムニバス公演。結果的にはコンテンポラリーダンス作品が揃ったが、募集に際しては身体表現を重んじるパフォーマンス作品ということになっていて、これまでの公演では、演劇やコントも含め、身体性が高いと自認する多様な団体が並んでいた。

 「姉と妹」というカンパニー名は、実際に吉見姉妹の出演によるもので、妹の理沙が構成・振付を担当。2人とも天理大学のダンス部で活躍していて、理沙が1年の時に英里が4年だったか。2人とも卒業してそれぞれの形でダンスを続けているようで、頼もしい。
 作品名は「不和の林檎―渇欲が私を赤く飾る―」。実は映像のトラブルがあって、2度上演することになったことは気の毒だったが、緊張感を保ってクオリティの高い作品であることがきちんと伝わった。悔しかったろうが、こちらとしても2回観れてよかったという面もある。姉妹共に身体の動きの線が、強さ、激しさの中に流麗な美しさを持っていて、思い切った落下や激しいコンタクトで観る者を引き込む魅力がある。茫漠とした草原の風景、デッサンなどの映像を使い、舞台上でもリンゴが重要なモチーフとなるなど、短い作品のわりには少し要素が多すぎるようにも思ったが、どれも鋭角で詩的な空気にまとめられており、求心力を保っていた。中でも、スケッチブックに鉛筆でデッサンするときの摩擦音のノイズが耳元で起きているように不気味で、切迫感があって効果的だったように思う。リンゴのやり取りで主体の混乱・撹乱を切実かつシンプルに描いて、よく練り込んだ作品になっていた。
 原の振付・演出、舩橋陽の音楽による「un face」は、昨年のこうべ全国洋舞コンクールで1位に輝いた美しいバレエダンサーである高瀬と、「新世界ゴールデンファイナンス」の金粉ダンサーでもある異形の小動物系の竹ち代という異色の組み合わせ。バレエダンサーでもあり演劇関係の振付やダンス指導も多い原は、竹ち代と十数年前にENTENというカンパニーにいたとはいえ、現在この3人を並べると、ダンスというジャンルの中では、かなり遠く離れた地点に点在している3人のように思われた。

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 高瀬と竹ち代が同じ舞台に立つと想像するだけで、可笑しかったのに、いざそれが実際に行われて、ユニゾンなど始まると、意外なほど成熟したいい雰囲気がある。背中を合わせて並んで座るからというだけではなくて、ここで意識されていたのは、背後の存在であったようだ。目に見えないもの、もしかしたら本当にないかもしれないものが、ないかもしれないからこそ一層の大きさで迫ってくる。椅子によって生じる面の高低をうまく使い、二人の関係の変化や不安定さが自然に現われていた。そのせいで、何かドラマティックなものを感じさせるのだが、それも当の二人が見ているドラマのようだ。しゃがんだり顔を覆ったりする動きが何種類かの(?)パターンで繰り返されるが、そこに二人の個性も現われる。竹ち代は時々仁王のように力を込める。そんなアクセントが時間の流れに楔を打つようだ。何を、何が、ということは言い難いが、遠くの激しい劇を盗み見してしまったような思いが残っている。ユニゾンというものの持つ距離について、しみじみと考えることができたように思う。(写真は原和代のFacebookから。撮影:清水俊洋)

 田岡和己の振付による「はさみさま」は、くしゃくしゃにした紙を山積みにした前で、両手の握りこぶしを突き出して「どっちだ?」の手遊びをするシーンから始まる。そのゲームから動きが始まり、ゲーム的なスピーディな展開が楽しいのだが、そのゲームに拘泥するのではなく、ちょっと距離をとっているように展開するのが、いい。指で中空に絵を書いたり、軽く鈴木がリフトされたり、遊戯的な要素が多用されているのだが、どこか一ヶ所に向かっているように思えず、主題がわかりにくくなっていくように思えた。「失くしたものを見つけてくれる「はさみさま」をテーマに忘れてしまっていた自分自身の心の中を思う」とプログラムには記されているのだが、「どっちだ?」等の既存の遊戯によるのではなく、何か別の動きを印象づけることで中心に向かっていくこともできたのではないだろうか。

 「め~たんず」というのは、「吹田市を中心とする5歳から40代までのダンス経験も人生経験も異なる12名。メイシアター30周年を祝い、踊るためにこの春、結成された」カンパニーだそうで、いわゆる素人によるコミュニティ・ダンスのカンパニー。Kyoto Dance Exchangeなどコミュニティ・ダンスに深く関わっている市川が振付・演出に加わった。「だるまさんがころんだ」から始まって、小さな女の子が天使のようになって指揮をしたり、ペアのコンタクトがあったり、王子様やおじ様ががんばって重要なポジションを務めたりと、参加者の個性を引き出したステージだったといえるだろう。何か核になるようなもう少し強い動きがあれば、一層達成感が強まったのではないだろうか。

Photo

(写真は出演・角谷有紀さんのFacebookから)

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