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2015年9月10日 (木)

宝塚歌劇宙組「王家に捧ぐ歌」

2015年6月27日

 作・演出:木村信司、作曲:甲斐正人
 主演:朝夏まなと、実咲凛音

宝塚大劇場(宝塚市・栄町)

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 初演は2003年星組で、湖月わたるが主役のラダメス、アイーダを男役の安蘭けい、アムネリスがトップ娘役の檀れいというラインアップだった。女性の役を男役二番手が演じるというのは変則的だったが、それ以外に男役で大きな役がないこと、檀がどちらかというと歌が苦手で、安蘭は非常に歌が得意だったために、ヴェルディのオペラ「アイーダ」の筋しか踏まえないとはいえ、オペラ的な、歌を重視した作品にしたいという木村の強い意向もあって、このようなことになったのだと思われる。

 今回この宙組での上演は、朝夏まなとがトップとして大劇場にお披露目となる公演でもちろんラダメス、アイーダ は順当にトップ娘役の実咲で、彼女は前トップ凰稀かなめ時代からの留任である。檀が演じたアムネリスは、若手娘役の伶美うららが演じることとなった。

 再演に当たって、物議をかもしかねないことがあった。それは、初演時にはこの作品はイラク戦争を踏まえたもので、テーマは「愛と平和」といわれていたのを、演出家がわざわざ「再演は<愛>だけでいきます」と語っていたことだ。「歌劇」2015年8月号で小藤田千栄子さんも書いておられるように、「やはりこのミュージカルは、愛と平和だなあ」というのが、ふつうの受け取り方だと思う。小藤田さんはさらに踏み込んで、「多くの観客が、70年間、戦争をしなかった国のことを考え、それは結局のところ<平和>について考えることなのであった。まさに時宜を得た再演であった」と結んでおられる。時節柄、木村は平和を強調することで何かを思われることを臆したのか、と勘繰りさえする。何も言わないほうがよかった。木村は『スサノオ-創国の魁』(2004年、雪組)のプログラムでも、北朝鮮の拉致問題について言及し、ぼくたちを鼻白む思いにさせたことがある 。そういうことはまず観客の想像力にゆだねたほうが、余計な先入観を排し、作品の幅も広がるはずだ。なぜわざわざ、再演に当たって「平和」の看板を降ろす発言をしたのか、理解に苦しむ。

 再演作品なので、あまり物語に立ち入ることはしないが、この作品は、敵対する国家の将軍と王女が愛し合ってしまった、ということに端を発している。この2人の愛を実らせるには、国家の関係、端的には戦争と平和に向き合わなければならない。「この世に平和を」「戦いは新たな戦いを生むだけ」といった歌詞がこのドラマを強く推し進めるのは、2人の愛が2人の間だけにとどまらず、世界に広がる可能性と希望を一貫して抱えているからだ。その希望の眼ざしの方向性を、朝夏と実咲、特に朝夏が全身で体現したことが、今回の公演の成功の理由だったといえるだろう。

 また、組全体の、特にコーラスの力が強かったことも特筆に値する。声が鋭角になって相手を飲み込み圧倒し、また最後には声が一つの祈りとなって次の時代を開いていく。そういうシーンを作る勢いのある歌だった。専科の2人、箙かおる(エジプト王ファラオ)、一樹千尋(エチオピア王アモナスロ)は初演と同じ役だが、演技、歌(特に箙)に一層の充実が見られ、舞台の緊張感を高めた。

 朝夏については、『翼ある人びと-ブラームスとクララ・シューマン』(2014年、シアター・ドラマシティ)の歌で声が何度か裏返り、声の薄さが問題かと思っていた。『ベルサイユのばら―フェルゼンとマリー・アントワネット編―』(2014年、全国ツアー)で主役のフェルゼンを演じた時にも、歌声が前に出ず、そのために、フェルゼンとしての大らかなスケールを感じられなかったのが気になっていた。事実上のトップお披露目となったミュージカル『TOP HAT』(2015年、梅田芸術劇場メインホール)は、もっとタップダンスを踊りまくるのかと思っていたら、群舞はともかく、朝夏個人は思っていたほどではなく、演技もテンポの速いコメディを進めていくのに必死で、ブロードウェイらしい余裕が感じられない物足りなさがあった。

 しかし、『銀河英雄伝説@TAKARAZUKA』(2012年)のキルヒアイス、『翼ある人びと』のブラームス、『白夜の誓い-グスタフIII世、誇り高き王の戦い』(2014年)のリリホルンと、屈折を抱え、劇中で振幅の大きな変化を遂げる好青年を演じると、非常に切なく的確な演技で見せる。人となり、佇まいといったものが素直に透け見え、悲劇の中にも明るい印象が残るのが朝夏の魅力だ。だから、彼女のトップ就任には、期待と不安の両方があった。

 堂々としたものだった。不安だった歌がすばらしかったし、充実したコーラスに乗っての演技がすばらしかった。たとえば、疾走感あふれる、銅鑼を数える石室のシーンでのコーラスをバックに、視線の方向だけでドラマをきっちりと捉え返せるのは、目の大きな朝夏ならではともいえるが、それ以上に、全身がドラマの行く末を捉え、強気と躊躇を行ったり来たりする心の揺れがはっきりと伝わり、存在に説得力があった。アイーダとの柔らかい歌では、朝夏の大らかなやさしい雰囲気が過不足なく声に乗っていたようで、聴いていて心地よかった。こんな歌が歌えるようになったかと、感心した。舞台映えする姿の美しさはいうまでもなく、衣裳の金色がよく似合って、お披露目に相応しい豪華さ、華やかさだった。

Aida

 実咲は、花組で新人公演『麗しのサブリナ』(2010年、本役は蘭乃はな、相手役は瀬戸かずや)で鮮烈なデビューをした後『ファントム』『復活』(共に本役は蘭乃はな、相手役は鳳真由)と、大作の新人公演で主役を演じ、バウホールの『近松・恋の道行』でも主演と、着々と成長してきた。

 特に『ファントム』のクリスティーヌでは、率直な評価で知られる薮下哲司氏が「クリスティーヌの実咲は、この役が歌のうまさが命であることを改めて実証してくれた。これまで数多くの娘役スターがクリスティーヌを演じてきたが、これほど見事なクリスティーヌは初めてだった。天使の声をもち、しかも感情表現が豊かで、芝居心もあった。(中略)久々に大物娘役誕生を見た思いだ。」  と絶賛するほどの実力、魅力を具えていた。

 ところが、2012年に宙組に異動し、凰稀の相手役になった2年間は、役にも恵まれず、その闊達で奔放なところさえあった大らかさが影を潜め、歌の魅力も一段あせてしまったように思えた。

 そんな時期を経てのトップ残留、そして大作への挑戦ということで、実咲のアイーダにも、期待と不安があり、率直にいえば不安のほうが大きかった。

 柔らかで表情が生き生きとして、感情移入のしやすい、存在感のしっかりしたアイーダだった。表情の豊かさが、アイーダの置かれた立場の複雑さを余さず表現し、その短い波瀾に満ちた一生を観る者に強く印象づけることになったはずだ。歌も非常に豊かな表情を持ち、伸びやかで心地よく、入り込みやすかった。つまり、彼女のアイーダは、観客個々にさえ「アイーダは、私だ」と思わせる力を持っていたように思う。一つには、彼女になりかわって、ラダメス(=朝夏)の抱擁のうちに事切れたい、という宝塚ファンなら当然抱くはずの願望。さらに、愛と何ごとかの狭間で苦しみ悶える自分の姿との重ね合わせ。

 石牢の暗闇の中で互いを見つけ、ふれ合った時の喜びは劇場の中のすべての人が自分の喜びとして実感できたものだっただろう。それは決して現世では実らないという切なさがある。朝夏にとってすばらしいスタートだったし、実咲にとっても絶好の再スタートだった。星組から移ってきた真風涼帆もアイーダの兄ウバルドとして大きな存在感を示して、フレッシュな三角形となりそう。アムネリスの伶美は、まず美しく、演技も非常にうまく、強い。ただ、課題の歌はなかなか一皮むけない。見た目には、呼吸の仕方に問題があって、背中から肩にかけて上半身が背後からどんどん前にのめってしまい、胸からのどを圧迫しているように思える。ちょっと上半身の重心を後ろに置いて、肩を落とせば、ずいぶん楽になるのではないだろうか。これからさらに大きな役がついて、ボイストレーナーの指導もきっちりと付くだろうから、いずれ解決されるだろう。これからの宙組が実に楽しみだ。

(舞台写真は、宝塚歌劇倶楽部掲載の、朝日新聞デジタルから。ただし朝日新聞デジタルでは未確認)

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