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2016年3月

2016年3月19日 (土)

神戸女学院大学音楽学部舞踊専攻第7期生卒業制作作品集 ソロ・リサイタル

2015年7月11日
 
出演:佐々木微香、小谷有輝、藤森美貴子、金愛珠、池主雅夕、岡庸子、佐藤絢音、杉田亜祐美、 川原美夢
 
神戸女学院大学エミリー・ブラウン館Aスタジオ  
 
Solore
 
 島﨑徹教授が指導している舞踊専攻の卒業制作だが、島﨑氏は個々の創作についてタッチしていないようだ。終演後島﨑氏が、感に堪えない表情で、「みんなすごいでしょう、いつこんなの身につけたんだろうね。ぼくの仕事なくなっちゃうよ」と言っておられたのが印象的だった。
 
 もちろんもともとのバレエ団やダンススタジオで、また非常勤の砂連尾理さんや鞍掛綾子さんらからも、創作ということを学んできているのだろうが、島﨑氏が授業の中で、彼女たちの前で創作の過程をさらけ出すように試行錯誤しながら時間を創っていくのを目の当たりにして、多くのことを学び取っているに違いない。
 
 佐々木微香「planet box」は、本人のソロ。恵まれた容姿をきっちりと見せ、期待されるよりも少しクールに抑制的にまとめたあたりが、佐々木らしいところか。力のこもった入り方、歩き方のニュアンスに瑞々しいシズル感があり、フォルムの美しさ、動きの粘り、目力の強さが印象に残る。終わり方が少し唐突だったのと、照明にもう少し変化、メリハリがあればもっとドラマティックで強い印象が残ったのではないか。
 
 小谷有輝「HaRu」は、同学年の岡、本人と、下級生の村林楽穂、辻田萌子、目黒真帆が出演。日常的な軽い感じの始まりから、ゆるやかなユニゾンとなり、女子の日記やそれに付いたコメントのような、ちょっと古風なモノローグ的な印象。小谷が中央に立っての後半の動きも、なかなかよかった。軽やかな笑顔の魅力がうまく引き出されていて、気持ちのいい作品だった。
 
 藤森美貴子「Harriet Lies」は、まず指の細かい動きが印象的で、観客の視線を一点に集中させることに成功した。シリアスな空気の流れる作品の中で、かすかな笑顔や、腕を身体の芯に引きつける強い意思を感じさせる動きや、全身をガクガクと落としていく感情の振幅を表わす強い表現が印象的で、強い表現力を持ったダンサーになっていたようだ。そういう表現ができる身体を生かして、やや黒めのトーンにきっちりとまとめた、とてもいい作品だった。
 
 金愛珠のソロ「W face」は、大きな打楽器の音から非常にいいテンポに始まり、仮面をつけた上での強い動きが印象的だった。鬼か物怪を思わせる民族的なテーマかと思われ、仮面によって何ものかに成る/戻るという変異があるかと思われたが、そこへ展開するには及ばなかったようだ。おそらく、音やリズムから創っていった作品ではないかと思うが、その意味では非常によく音の流れや刻みをつかんでいたと思う。
 
 池主雅夕のソロ「Bloom where God has planted you」は、優雅で美しい姿と動きで、音をきっちりと捉えて、音の区切りでの身体のキックが強さを与えて印象的な作品。タイトルはおそらくシスター渡辺の「置かれた場所で咲きなさい」からだろう。欲をいえば、動きを収める時の抗うようなキレ、最後の最後にもう一押しの強さのようなものがほしいと思ったのだが、そこを押さないところが池主の上品さなのかもしれない。
 
 岡庸子「あ、うん」は、下級生の市村麻衣、加藤美央とのトリオ。市村と加藤がオフバランス気味の自由な動きをとる中へ、シャツが投げ込まれて、岡もダイブしてくる。コンテンポラリーらしい始まりで、岡のダンサーとして、享受者としての様々な経験が実っているように思えた。続くユニゾンでは、チーム島﨑らしい、音楽に乗った重心の低いきれいな動きを見せた。3人という最小限でのフォーメーションの工夫、3人の個別性の描き分けがよくできていたと思う。市村と加藤がほぼ無表情で終始したのに対し、岡に表情があったのは、コントラストかもしれないが、どうだったのだろう。
 
 佐藤絢音の「Regulus」は、下級生の奥西れいとのデュエット。バッハの無伴奏チェロのリミックス(The Piano GuysのおそらくThe Cello Song)に乗って、アクティングエリアを大きく小さく自在に伸縮させ、多くの動きの要素を詰め込んで、豊かな多様性と同時にまとまりのある作品になった。2人のダンサーのアンバランス(身長差等)もあって、並ぶだけでズレが生じるというのもいい選択で、2人のコンタクトも爽快だった。希望と喜びに満ちた作品で、見終えて気持ちよかった。タイトルは獅子座の一等星。
 
 杉田亜祐美「星降る夜」は、同期の金、佐々木、小谷と杉田によるもので、4人が客席に背を向けてユニゾンからカノンに入って始まり、ポジショニングも動きもとてもきれいだった。美しさと同時にとてもクールな面があって、作品の温度や湿度をきちんと踏まえられているように思えた。これはなかなか難しいことだ。4人の個々のフォルム、動きの美しさを的確に引き出しつつ、自身の世界観をきっちりと打ち出せた作品だったと思う。
 
 川原美夢のソロ「Atomatitoo」は、無音の中、胡坐でこぶしを叩いたり床を叩いたりして、やんちゃなコンテンポラリーらしいいい始まりだと思っていると、いきなりブラームスのハンガリー舞曲が入った。音にあわせてずんずん進めていくのだが、少しコミカルな動きをしたり、コケティッシュな表情になったりと、次の展開が読めないところが面白い。突然笑い出し、ゴリラのように歩く。破調のある動きをどんどん繰り出していくのだが、それによって作品としてバラバラになっていくのではなく、自然に求心的にまとまっていくのがいい。破綻や逸脱ということをよくわかった上で、それらを包み込む大きさを持てているということだろう。数年間の彼女の集大成的な作品だった。
 

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越島はぐ展-『ビブリア古書堂の事件手帖』装画

2015年7月11日

宝塚大学ギャラリーTRI-ANGLE
Hagu

 宝塚大学構内のギャラリーで、卒業生のイラストレーター越島はぐの個展。第15回電撃イラスト大賞部門銀賞を『先輩とぼく』(著:沖田雅)で受賞。
 
 造形芸術学部の募集停止が発表された直後の展示だったので、内心複雑だったが、開学して30年近く、多くの優れた卒業生を輩出してきたのだなと、感慨がある。越島さん本人も在廊して現地制作をしながら、在学生と話したりしていて、縦のつながりをうらやましく思いもした。
 
 こういう分野には全く詳しくないので、ただの素朴な感想だが、北鎌倉の古書店、対人関係の苦手な若い店主という雰囲気が色調や線にとてもよく出ているように思えて、魅力的な世界を構築していると思った。古書店のにおい、空気感が、漂ってきそうな絵になっている。

 店主で探偵役の篠川栞子が主要なテーマになっていたが、Wikipediaにも書かれているように、内向的だが古書の知識は豊か、黒髪の美人で、黒縁のめがねをかけていて、細身の巨乳という、典型的な萌えキャラ(なんだろうと思うのだが)。
 
 おそらく越島さんの美点は、一枚の中に、古風な清楚さと、柔らかな官能性を、絶妙なバランスで同居させていることなのだろう。そのバランス感覚については、若干の物足りなさを感じないでもないが、そうでなければイラストレーションという世界では難しいのだろう。しかし、逆にその柔らかな不満から来る焦燥感が、萌え死ぬような熱い思いを掻き立てるのかもしれない。
 
 造形芸術学部の在学生が、勇気づけられ、ファイトを燃やしてくれていたら、いいのだが。
 

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宝塚歌劇団星組「大海賊」「Amour それは…」 

2015年7月4日
 
「大海賊」 作・演出:中村暁
「Amour それは…」 作・演出:岡田敬二
 主演:北翔海莉、妃海 風
 
梅田芸術劇場
 
Daikaioku
 
 柚希礼音・夢咲ねねの退団を受け、星組のトップとなった北翔海莉(ほくしょう・かいり)、妃海風(ひなみ・ふう)の事実上のお披露目となる全国ツアーの大阪公演。全国を回って最終地が大阪ということで、十分こなれた上で本拠地近くの上演となり、真価が問われる公演となったといえよう。
 
「大海賊」は2001年、当時の月組新トップスター紫吹淳(しぶき・じゅん)のお披露目公演として上演されたもので、北翔もこれに出演していた。カリブ海の小さな島の青年貴族エミリオ(北翔)が、イギリスの元海賊で軍司令官エドガー(十輝いりす)の非道な仕打ちに、最後は復讐を果たすというシンプルなお話。大雑把にいえば、エミリオの成長と闘争の物語であり、エミリオの少年から成人するまでの人間的成長、演技の変化がポイントとなる。成長の過程で、貴族の子弟から復讐のために海賊となったエミリオが、その首領になっていくという設定が、新トップ就任という現在の立場と重なるというのも興味深いところだ。
 
北翔、立派なものなのだ。以前から評価されているように、三拍子も四拍子もそろっていて、非の打ち所がない。それだけに、破綻というか、破裂的な凄みが出てくるかどうか、それは脚本や役柄にもよるだろうが、そんなものを欲してしまう。どこが、何がとは言いがたいのだが、「もっとできる、できるはず」と思わせてしまうところがあるように思うのは、ぼくが貪欲すぎるのだろうか。
 
同じくトップ娘役になった妃海は、トップ就任発表前後から急に、化粧を変えたのか表情に艶が出て、俄然美しくなり、上品さが出てきた。歌も演技もうまく、ダンスも問題ない、愛らしいいい娘役だ。変な言い方だが、いい意味で安定感…安住感という言葉を作ったほうが近いのだが、そういうものがないのがいい。不思議なことだが、トップ娘役になったことに、戸惑いを持っているように思えてしまうところが、演技に生かされている。自分の置かれた立場への、淡い違和感を抱えながら、受け入れざるを得ないという感覚を巧まずして表現できる役者は、なかなかいないのではないか。
 
海賊というチーム芝居でもあり、若手にも大きな役がついた。キッドの礼真琴(れい・まこと)が、海賊らしい荒っぽさ、スケールの大きさを出せていたところがいい。敵役の十碧(とあ)れいや、厳しい表情を的確に見せ、昨年末の『アルカサル~王城~』で格段の成長を遂げたのが、うまく繋がっていたように思う。
 
ショーの『Amour それは…』は、2009年の大和悠河のサヨナラ公演。率直に言って、こんなにいいショーだったかと、驚いた。岡田敬二のロマンチック・レビューは、もうこの時代には合わないのではないかと思ってしまっていたのだが、きっちりと実力のある正統派が芯を務めれば、ちゃんと求心性のある締まった舞台になるのだと感心した。中盤の北翔の客席に降りて懐かしいポップスをメドレーで歌う場面では、彼女のちょっと古風な正統派ぶりが、宝塚のコンサバなファンにはちょうど心地よいエンタテインメントとして成立し、もちろんトップ就任を祝う空間として、完璧に一体感を作れていた。
 
繰り返しになるが、果たして「がむしゃらな北翔」を、ぼくたちは観ることができるのだろうか。
 
 

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中岡真珠美展「絵になるはじめ」

2015年7月4日

Oギャラリーeyes(大阪市北区)

 風景から何かが抜けているという印象の作品。風景を写真に撮って、気に入った形をトレース、デフォルメして再構成された風景だというのだが、その過程で何が抜け落ちるのだろうか。
 
 それは必ずしも、図と地、主題と背景というような軽重の関係にあるようでなく、そもそも元になっている風景自体に「何を写した」とか「何を見ている」というような主題が見つからない。
 
 おそらくその欠落あるいは空白そのものが主題なのだろう。色彩を個々に見れば、鮮やかでないわけではないのだが、たとえばこの図版「Go!バンテリン。#5」のように、中央の看板状のものが空白であるとか、木の枝が白抜きで描かれている(いない)ということで、印象として、画面から観る者に押してくるのではなく、引いていくように思える。

 肝心のものは、描かれていない。それは、いかなる判断ないし選択によって描かれずに終わったのだろうか。
 
 たとえば少し前の作品になるようだが、パレスホテル東京のエレベーターホールにあるという「幕間」  という作品は、「パレスホテル東京周辺の風景がモチーフ」としながらも、おそらくそうだと明確に指示するようなランドマークは描かれていないのだろう。
 
 「中心暗点」と呼ぶらしいが、「視野の真中が暗く抜けて見にくい」「見ようと思うところが見えない」という症状があるらしい。
 
 何かが在るということは、背景に対して、何かがそこを占めているということで、侵食する/されるという関係が成立していることになるわけだ。それを引き算的な手法によって露わにすることが、中岡の面白いところだ。
 
 そんなふうにして2012年あたりから原爆ドームを描いている作家だと知った。これは相当高度なインテリジェンスであることよと、感心している。
 
http://www.artfrontgallery.com/artists/cat51/
 
 

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モンゴルズシアターカンパニー「闘争/判断-世紀末ウィーン、ヒトラーvsフロイト」

3日 

作:くるみざわしん(光の領地)、増田雄
演出:増田雄、空ノ驛舎
出演:宮村信吾(劇団EN)、松原一純(A級Missing Link)、藤田和広、福良千尋(㈱WAC)
隈本晃俊(未來探偵社)、三田村啓示(空ノ驛舎)
大阪市立芸術創造館

 2部構成の上演で、エピソード1「遊んで、お父さん」がくるみざわ作でヒトラー(1889-1945)の幼年時代、エピソード2「エディプスの鏡」が増田作でヒトラーの青年時代を描いたもの。それぞれヒトラーが青年フロイト(1856- 1939)、壮年フロイトに出会っているというフィクション。
 
 「遊んで、お父さん」は、少年ヒトラーをめぐり、夫に従順で自分自身の言葉や意見を持たない母クララを福良、高圧的で暴力的な父アロイスを宮村、ヒトラーの住む町の医者ブロッホを藤田、都会の精神科医フロイトを松原が演じた。つまり、アドルフ・ヒトラーは、登場しない。アドルフがレオンディンクの小学校に通い始めた1895年前後6歳という設定。フロイトはウィーンで開業していた。
 
 「エディプスの鏡」は、画家になろうとしてウィーンに出てきた1908年19歳のアドルフ(三田村)が、シェーンブルン公園のベンチのようなところでフロイト(隈本)と議論したり、肖像画を書くことになったりする。ラストではアドルフが強烈な演説をぶつ。三田村の迫力がすごい。
 
 チラシのコピーが「もし、ヒトラーとフロイトが出会っていたら…?」だったので、「こうなっていた」という解答を期待するが、ある意味では当然、そういうわけではない。作者がそこまで踏み込まなかったのか、歴史に対する遠慮なのか、事実への敬意なのか。せっかく演劇なのだから、2本のうち1本は、フロイトの精神分析を受けて完全に狂気に陥ってしまったアドルフが失踪か自殺かしてしまって、代わって誰かがアドルフを名乗って独裁者になったのだとか、すっかり情緒が安定してしまったアドルフは平凡な人生をたどってムッソリーニがドイツに侵攻するのに抵抗したとか、そんな話にはできなかったのだろうか。
 
 「遊んで、お父さん」が面白かったのは、アドルフの行動や発言がすべて伝聞で語られることと、物語が一筋縄でいかずどんでん返しがあったところで、演技においては宮村の強烈な横暴ぶりと恐怖を催す存在感、福良のブロッホやフロイトの前での揺れと後半の反転した冷徹が凄みを帯びていた。
 
フロイトは、アドルフのコンプレックスを解放させ、母クララまで救済しようというほどの勢いで「治療」を進めるが、父アロイスが現われると、アドルフは恐怖のためにフロイトに反抗するどころか、突如とても冷静になったアドルフがこれまでのことは全部演技でしかない、フロイトのやってることなどお見通しだったとして、逆にフロイトの異常性を暴き立て分析さえしている、ということをクララから聞く。クララ自身も一転してフロイトを否み、アロイスを賛美する。「治療」は失敗したどころか、フロイトのダメージも大きく、その後のフロイトはアドルフを拒否してしまう。単に父親への恐怖で萎縮、退行してしまっただけではないのが、きつい。6歳の子供にそんなことが…と思いはするが、その虚構性を楽しむことができたように思う。
 
「エディプスの鏡」は、2人の俳優の演技のすばらしさには感嘆したが、2人の対決は常に回避され、肝心な問答もスフィンクスの問いということでスフィンクスの被り物を着けた隈本のコミカルなオーバーアクションに流され、求心力をどんどん失っていく。フロイトがアドルフの周囲をバタバタしているだけのように思え、[vs]という対等になっていないように感じられた。結果的に、フロイトの無力ばかりが印象に残ってしまったようで、残念に思ってしまった。そう思うような世の中だ。
 
http://www.mongols-tc.com/2015/04/blog-post.html
 

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園田珠子展 山内亮展

2015年7月3日
ギャラリー白

 鏡を張った屏風を空間いっぱいに立てて、ところどころ猫の立体がよじ登ったりうずくまったりしている、ダブルコンセプトの作品といっていいだろうか。
 園田はずっと信濃橋画廊で個展を開いてきたが、2013年からギャラリー白に場を移したようだ。その時にも鏡を使った作品を出展していた。鏡に「うまくいかない状況を/まわりのせいにしている私がいる。」などといった文字を彫り込んだ作品が印象に残っている。今回も同様な小品が2点あった。その作品を見るためには、作品に写った自分の姿を見ざるを得ない。すると、そこに彫られた文字の「私」が自分自身であって、自分の述懐のように思わざるを得ない。
 今回の作品「鏡面屏風 2015」は六曲二隻の屏風で、この写真は、カメラを三脚に立てて、タイマーをセットして撮影者は逃げる、として写したものではないかと思う。鏡だから、写り込んでしまうし、屏風だから、角度によってはそれが無限ループのようになるかもしれない。美術作品を見るときに、自分の姿が見えるのは、いやだ。そんな違和感や、自分の姿を見せられてしまうことについての嫌悪感を強いているようでもある。
 もう一つ、写真では見えにくいが、右隻の三曲目、四曲目あたりの上方等に銀色に彩色した猫の木彫が戯れているのが見える。もちろん作者が猫好きであるわけだが、猫が鏡に写っている自分の姿と戯れていると同時に、日本の伝統的な調度と愛すべき飼い猫という、日本の室内の閉じた空間の内向性を表現しながら、鏡面の連続という際限のない奥行きを持ってもいる。以前の個展でも鏡張りの襖などの建具を使っていた。仕切りに使われるものが反射によって空間の際限なり奥行きをつくってしまうことのおかしさ、それを猫が不思議がって覗き込んでいるようなおかしさがある。

 3階のギャラリー白3の山内亮は一貫して猫、時々犬の顔面だけをクローズアップして描き続けている。写真の「無二無三」は1mを超える大作で、猫の素の表情、エキセントリックな変色、激しいマチエール、物語を思わせるタイトル(「ご多分に漏れず」「特等席の御仁」など)と、取っ掛かりがたくさんあって、入り込みやすい作品だ。
 しかし、繰り返しになるが、表現主義をさらに混濁させたような特徴的な色づかい、実物の何十倍または何分の一にもなる極端なサイズの変更、方向の定まらないマチエール、作品によっては輪郭の半透明化等々、現代美術の構成要素がふんだんに盛り込まれている。ただテーマが具象的に猫であるというだけで、親しさ、入り込みやすさを獲得している。面白いアプローチを見出していると思う。
 

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高松次郎 制作の軌跡

2015年7月3日
国立国際美術館

 戦後前衛美術の重要な一角を占める高松次郎(1936- 1998)の回顧展。影、遠近法といった代表的な作品や、晩年の大きなドローイングまで、幅広い展示だった。
Takamatsu
個人的には、詩人の谷川雁さん(1923-95)が宮沢賢治の童話作品を媒介に児童教育に専心した時期に、高松が美術を担当した絵本、その原画が展示されていて、懐しく感じられた。「現代詩手帖」の編集部にいた1983年ごろだったと思うが、何度か谷川雁さんにお目にかかった。「『瞬間の王』は死んだ」として詩作を断ち、評論集『原点が存在する』『工作者宣言』で新左翼の理論的支柱のひとりとなったこと…までは知っていたが、その後の活動を追っていなかったので、始めたばかりの「十代の会」や「ものがたり文化の会」について熱く語る目の前の谷川さんを、少し訝しく思っていた。でも今なら、社会変革を志した人が子供の教育に情熱を注ぐことを、当然のように理解できる。宮沢賢治の物語に、全くの抽象である現代美術作品をぶつけ、それを子供に提供すること。それに谷川さんは未来を賭けたのだと思う。そこで谷川さんが宮沢賢治の童話の本の美術家として白羽の矢を立てたのが、当時40代後半の高松次郎であり、他にも菅木志雄、金昌烈、李禹煥らとの協働があったわけだ。
1970年代後半からドローイングに転じた高松についても、おそらく当時は、コンセプチュアルやハプニング等の前衛、実験からの退行、回帰と否定的に評価されていたことだろう。しかしおそらく、少なくともこの当時のドローイングに関しては、何かしらの計算式に基づいたコンセプトが明確にあったのではないだろうか。正弦曲線や何かの波形の組み合わせが、思わぬ生命体のようなものを生み出してしまうことの驚きから、さらに最晩年の明らかな抽象的な生命体を描くことへ回転して行ったのではないだろうか。
国際美術館では、地下のチケット売り場のすぐ右に、チラシにも使われている「影」(1977)の大きな作品があり、遡ればこれはこの美術館が千里の万博公園にあったころから、館の目玉作品のような存在だった。影を描いた作品がシンボル的存在だということは、どういう意味があったのだろう。

 まず、視覚の惑乱ということはある。キャンバスには影が「映っている」のではなく「描かれている」のだが、映っているようにしか見えない。影があるので、多くの人はキョロキョロと作品の逆の側を見渡して、実体を探す。何もそれらしいものはないし、ここが美術館であることを思い出すと、キャンバスに近づき、それが写真等ではなく、アクリル絵具による作品であることがわかる。描画の技術にも感嘆することになる……この作品群との最初の出会いは、こんなプロセスだろう。ぼくが初めて千里の国際美術館でこれを見たときも、そんなことだったと思う。
 西洋の絵画が陰影表現に意を凝らしてきたのに対し、中国や日本の絵画は、伝統的に影を描かない。確かに、若冲にも応挙にも、影はない。二元論的な宗教観の問題もあるだろうが、約めていえば、固有色の認識=視覚の絶対性→視点の可動性の問題ではないかと思っている。墨色(あるいは紫色も混じっているのかもしれない)のグラデーションだけで何ものかを描くというと、まるで水墨画のようだが、それが影の表れで実体を描くのとは真逆のアプローチだ。実体のない影だけを描くということについて、時間的に影だけが残されて実体は失われてしまっているのか、そうだとしたら、そこに横たわる時間の隔たりは、一体どのような現象なのか。描かれたもののみを残存させることによってシニフェイエとシニフィアンを引き剥がすことが可能になっているのだろうか。影しか描かないと選び取ることによって、見る者が、その向こう側やこちら側に、様々な思考をめぐらせることができる。
 この展覧会でもう一つ大きな衝撃を受けたのが、冒頭の、つまり初期作品の「点」シリーズだ(左写真「点No. 20」、1961-62)。点というものが面積を持たないものであることを承知の上で、点状の物質を電子顕微鏡で観察し、それを再現する過程であるように思える。様々に色や大きさを変えながらも、執拗に「点」を描いていくという作業。点を細い紐か糸のようなものがクシャッと丸められたものとして認識するということから、次にはその紐に着目し、連作「紐」シリーズが生まれる。
 点は部分を持たず、線は幅を持たない長さであるという定義は、画家にとってはどのような感覚で受け止めるべきものなのだろう。ある種の無力感…描画という行為が、何ものも蓄積しないような感覚にとらわれるのだろうか。あるいは解放感か。点や線は、位置や長さの情報でしかない。すると何となくだが、面を思う時に、影という存在様態が、まことに相応しいもののように思える。そう考えると、点、線、そして影という初期の高松の流れが、一気に見えてくるように思うのだ。
【参考】http://www.art-annual.jp/news-exhibition/news/47484/
 

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