« 高松次郎 制作の軌跡 | トップページ | モンゴルズシアターカンパニー「闘争/判断-世紀末ウィーン、ヒトラーvsフロイト」 »

2016年3月19日 (土)

園田珠子展 山内亮展

2015年7月3日
ギャラリー白

 鏡を張った屏風を空間いっぱいに立てて、ところどころ猫の立体がよじ登ったりうずくまったりしている、ダブルコンセプトの作品といっていいだろうか。
 園田はずっと信濃橋画廊で個展を開いてきたが、2013年からギャラリー白に場を移したようだ。その時にも鏡を使った作品を出展していた。鏡に「うまくいかない状況を/まわりのせいにしている私がいる。」などといった文字を彫り込んだ作品が印象に残っている。今回も同様な小品が2点あった。その作品を見るためには、作品に写った自分の姿を見ざるを得ない。すると、そこに彫られた文字の「私」が自分自身であって、自分の述懐のように思わざるを得ない。
 今回の作品「鏡面屏風 2015」は六曲二隻の屏風で、この写真は、カメラを三脚に立てて、タイマーをセットして撮影者は逃げる、として写したものではないかと思う。鏡だから、写り込んでしまうし、屏風だから、角度によってはそれが無限ループのようになるかもしれない。美術作品を見るときに、自分の姿が見えるのは、いやだ。そんな違和感や、自分の姿を見せられてしまうことについての嫌悪感を強いているようでもある。
 もう一つ、写真では見えにくいが、右隻の三曲目、四曲目あたりの上方等に銀色に彩色した猫の木彫が戯れているのが見える。もちろん作者が猫好きであるわけだが、猫が鏡に写っている自分の姿と戯れていると同時に、日本の伝統的な調度と愛すべき飼い猫という、日本の室内の閉じた空間の内向性を表現しながら、鏡面の連続という際限のない奥行きを持ってもいる。以前の個展でも鏡張りの襖などの建具を使っていた。仕切りに使われるものが反射によって空間の際限なり奥行きをつくってしまうことのおかしさ、それを猫が不思議がって覗き込んでいるようなおかしさがある。

 3階のギャラリー白3の山内亮は一貫して猫、時々犬の顔面だけをクローズアップして描き続けている。写真の「無二無三」は1mを超える大作で、猫の素の表情、エキセントリックな変色、激しいマチエール、物語を思わせるタイトル(「ご多分に漏れず」「特等席の御仁」など)と、取っ掛かりがたくさんあって、入り込みやすい作品だ。
 しかし、繰り返しになるが、表現主義をさらに混濁させたような特徴的な色づかい、実物の何十倍または何分の一にもなる極端なサイズの変更、方向の定まらないマチエール、作品によっては輪郭の半透明化等々、現代美術の構成要素がふんだんに盛り込まれている。ただテーマが具象的に猫であるというだけで、親しさ、入り込みやすさを獲得している。面白いアプローチを見出していると思う。
 

|

« 高松次郎 制作の軌跡 | トップページ | モンゴルズシアターカンパニー「闘争/判断-世紀末ウィーン、ヒトラーvsフロイト」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 園田珠子展 山内亮展:

« 高松次郎 制作の軌跡 | トップページ | モンゴルズシアターカンパニー「闘争/判断-世紀末ウィーン、ヒトラーvsフロイト」 »