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2016年3月19日 (土)

モンゴルズシアターカンパニー「闘争/判断-世紀末ウィーン、ヒトラーvsフロイト」

3日 

作:くるみざわしん(光の領地)、増田雄
演出:増田雄、空ノ驛舎
出演:宮村信吾(劇団EN)、松原一純(A級Missing Link)、藤田和広、福良千尋(㈱WAC)
隈本晃俊(未來探偵社)、三田村啓示(空ノ驛舎)
大阪市立芸術創造館

 2部構成の上演で、エピソード1「遊んで、お父さん」がくるみざわ作でヒトラー(1889-1945)の幼年時代、エピソード2「エディプスの鏡」が増田作でヒトラーの青年時代を描いたもの。それぞれヒトラーが青年フロイト(1856- 1939)、壮年フロイトに出会っているというフィクション。
 
 「遊んで、お父さん」は、少年ヒトラーをめぐり、夫に従順で自分自身の言葉や意見を持たない母クララを福良、高圧的で暴力的な父アロイスを宮村、ヒトラーの住む町の医者ブロッホを藤田、都会の精神科医フロイトを松原が演じた。つまり、アドルフ・ヒトラーは、登場しない。アドルフがレオンディンクの小学校に通い始めた1895年前後6歳という設定。フロイトはウィーンで開業していた。
 
 「エディプスの鏡」は、画家になろうとしてウィーンに出てきた1908年19歳のアドルフ(三田村)が、シェーンブルン公園のベンチのようなところでフロイト(隈本)と議論したり、肖像画を書くことになったりする。ラストではアドルフが強烈な演説をぶつ。三田村の迫力がすごい。
 
 チラシのコピーが「もし、ヒトラーとフロイトが出会っていたら…?」だったので、「こうなっていた」という解答を期待するが、ある意味では当然、そういうわけではない。作者がそこまで踏み込まなかったのか、歴史に対する遠慮なのか、事実への敬意なのか。せっかく演劇なのだから、2本のうち1本は、フロイトの精神分析を受けて完全に狂気に陥ってしまったアドルフが失踪か自殺かしてしまって、代わって誰かがアドルフを名乗って独裁者になったのだとか、すっかり情緒が安定してしまったアドルフは平凡な人生をたどってムッソリーニがドイツに侵攻するのに抵抗したとか、そんな話にはできなかったのだろうか。
 
 「遊んで、お父さん」が面白かったのは、アドルフの行動や発言がすべて伝聞で語られることと、物語が一筋縄でいかずどんでん返しがあったところで、演技においては宮村の強烈な横暴ぶりと恐怖を催す存在感、福良のブロッホやフロイトの前での揺れと後半の反転した冷徹が凄みを帯びていた。
 
フロイトは、アドルフのコンプレックスを解放させ、母クララまで救済しようというほどの勢いで「治療」を進めるが、父アロイスが現われると、アドルフは恐怖のためにフロイトに反抗するどころか、突如とても冷静になったアドルフがこれまでのことは全部演技でしかない、フロイトのやってることなどお見通しだったとして、逆にフロイトの異常性を暴き立て分析さえしている、ということをクララから聞く。クララ自身も一転してフロイトを否み、アロイスを賛美する。「治療」は失敗したどころか、フロイトのダメージも大きく、その後のフロイトはアドルフを拒否してしまう。単に父親への恐怖で萎縮、退行してしまっただけではないのが、きつい。6歳の子供にそんなことが…と思いはするが、その虚構性を楽しむことができたように思う。
 
「エディプスの鏡」は、2人の俳優の演技のすばらしさには感嘆したが、2人の対決は常に回避され、肝心な問答もスフィンクスの問いということでスフィンクスの被り物を着けた隈本のコミカルなオーバーアクションに流され、求心力をどんどん失っていく。フロイトがアドルフの周囲をバタバタしているだけのように思え、[vs]という対等になっていないように感じられた。結果的に、フロイトの無力ばかりが印象に残ってしまったようで、残念に思ってしまった。そう思うような世の中だ。
 
http://www.mongols-tc.com/2015/04/blog-post.html
 

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